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第一章 1

ヤン・ドーが生まれたのは、スヴァルト銀河の中の恒星ドワから12番目に離れた場所を周回する、小さな赤い惑星だった。表面積の大半は、赤い砂岩で出来た山々で覆われていて、そこでは一年じゅう強風が吹き荒れていた。人々は、風をかわす谷に降り、そこで砂岩を削って平地を作った。そして、家畜とともに肩を寄せ合うように暮らしていた。

ドー。

この星に生まれた者は、全員、苗字がドーだった。星全体でひとつの家族。それが、ドーの社会の大きな特徴だった。人々は皆、温厚で優しく、歌と踊りが大好きで、食べ物はそんなにたくさんは無かったけれど、あれば必ず皆で平等に分け合った。社会には上流もなければ下流も無く、嘘も無く、人と人とのいさかいも争いも無く、そして争いが無いから「武器」と呼ばれるものも無かった。

ヤン・ドーはこの星で生まれ、厳しく長い冬を二度、越えた。

ドーの星では、冬を二度越えると大人とみなされる。新しい春。ヤンは、ごく普通のドーの女性のように、恋人を作り、恋人と同じ寝所で夜を過ごし、春の終わりか遅くとも夏の頃には最初の出産をするのだと思っていた。出産の後は子育て。兄弟姉妹もなるべくたくさん。そして更に二度の冬を乗り切れば、今度は子供たちが恋人を作り、孫を作るだろう。そうなれば、もう思い残すことはない。穏やかな気持ちで余生を過ごし、いつか、大勢の家族に囲まれ幸せにこの星で死ぬ。そういう人生を自分も歩むのだと思っていた。

ヤン・ドーの朝は、ダダルの世話から始まる。ダダルというのは、虹色の半透明の羽毛を持つ大きな鶏のことで、この鶏の産む卵はドーの人たちの貴重なタンパク源になっていた。

日の出とともにヤンは目覚める。いつも枕元に置いてあるフュルの小枝と蔓で編んだ黒い籠を手に持ち、鶏小屋へ向かう。

「おはよう、みんな! 今日も『あなた』の祝福が、ダダルのみんなにもありますように!」

そう言いながら、ヤンは鶏小屋の扉を開ける。ダダルは既に列をなしてヤンを待っていて、扉が開くやいなや、大喜びで羽をバタつかせながら外の庭に飛び出していく。日の光がその羽を透過して、小屋の壁に綺麗な虹を映す。ダダルが全員外に出ると、ヤンは入れ替わりに小屋の中に入る。ダダルの寝床には、赤茶色の干し草が敷きつめられている。その干し草の中に手を入れると、ほんのりと温かい拳くらいの大きさの卵がいくつもあった。

「みんな、今日もありがとう」

そう言いながら、卵をそっと持ち上げ、持参したフュルの籠の中に入れる。その日の朝の収穫は七つだった。ダダルの卵は、ひとつでドーの大人ふたり分の朝食になる。七つは十分過ぎる量だ。

と、背後から、

「ヤン姉ちゃん!」

と声がした。顔をあげると、いとこのトイとアキが水桶を手に立っていた。

「見てよ!」

「すごいでしょ!」

そう言いながら、ふたりは自慢げにその水桶を持ち上げてみせる。近寄り、中を覗く。と、大きな桶の半分近くまで、霜の結晶が溜まっているのが見えた。

「うわあ。ふたりとも頑張ったね。えらいね」

そう言って、ヤンは幼い兄弟の頭を撫でた。

ドーの星では、雨は滅多に降らない。川は無い。湧き水のようなものも無いし、地下水も無いので井戸も無い。ドーの人たちは、木々の葉に付く霜や朝露を集めて飲み水にしている。ドーの星の低地に育つフュルの木は、背は低いが幹は太く頑丈で、そして根を深く深く地下に伸ばす。その根で凍土を溶かして水分を得る。そして、葉からわずかずつその水分を大気に放出する。なので、フュルの枝に透明なハコを被せておくと、明け方のもっとも気温の低い時間に、葉から出た水分が霜となって再び葉やハコの壁面に付く。夏ならそれが露になる。それらを水桶に集めるのは、冬を一度越しただけの子供たちの仕事とされていた。

「ところでさ。ヤン姉ちゃんは、クロイ兄ちゃんと恋人になるの?」

そうアキが、ませた表情で訊いてきた。

「さあ、どうだろう。なんで?」

「なんでって、昨日の夜、クロイがそう言ってたからさ」

兄のトイの方は、最近、年の近い大人のことは呼び捨てにするようになっていた。ちなみに、クロイというのは、ヤンと同じく冬を二度越えた若者だったが、彼は春生まれだったので、秋の終わり頃に生まれたヤンから見ると、ちょっと年上すぎる気がしていた。

「ハナが手を出さないんなら、俺が出すって」

そうトイが続ける。と、弟のアキが、

「そうなの? ヤン姉ちゃんは、ハナ兄ちゃんと恋人になるの?」

また質問をしてくる。アキは、物心ついた時からずっとヤンにべったりの男の子で、なので、ヤンの恋人選びが気になって仕方がないようだった。

「まだ何も考えてないよ。だって、まだ春が来たばっかりだもの」

そうヤンは答える。

「そんなことより、この卵、お水と一緒に早くユリのところに届けてあげて。私もダダルに朝ご飯あげたらすぐ行くから」

そう言って、ヤンは卵の入った黒い籠をふたりに渡し、彼らの背中を優しく押した。

なぜ、ヤンはすぐに恋人を作らないのか。

冬を三度以上越したドーの大人たちは、実は密かに心配をしていた。春になれば、すぐに恋をするのがドーの星の習わしだった。恋をする。恋の歌を歌う。恋する相手と巡り合えたことを『あなた』に感謝をする。そして、双子の月が一緒に夜空に登る頃、男は子供の頃に寝ていたベッドを片付け、女の部屋の扉を小さく叩く。

これまで、数人の若い男がヤンの寝所の扉を叩いた。ヤンは扉を開かなかった。その理由を、ヤンはいつも、

「ぐっすり寝ていて、目が覚めなかったの」

と言った。でも、その言い訳が二度になり、三度になり、四度になると、大人たちは心配し始めた。

ヤンは、ハナ・ドーという若者と仲が良かった。ハナは、もともとヤンの兄と幼なじみだったので、自然とヤンもハナと仲良くなったのだ。大人たちは、

(ヤンは、ハナのことが好きなのだろう)

と考えた。

(ヤンは、ハナが扉を叩くのを待っているのだろう)

何人もの大人がハナに言った。

「ハナ。おまえ、ヤンの扉を叩いてはどうだ?」

「そうだね。そのうち行くよ」

ハナはいつもそう答えた。「そのうち行くって答えていたよ」と丁寧にヤンに教えてくれる者もたくさんいた。

「だから、ヤン。心の準備をしておきなよ!」

だが、まだ一度も、ハナはヤンの寝所に来てはいない。

小屋の横には金属製の円筒型の餌入れがいくつも置いてある。

重たい蓋を開け、中に大きなスコップを突っ込む。葉野菜の屑に、フュルの実を砕いたものと、穀物の搾りかすを混ぜる。それがダダルたちの餌だ。スコップに山盛りそれを載せたまま外の庭の真ん中に出ると、

「行くよー」

と掛け声を出しながら、ヤンはスコップを力強く振り回す。餌は、綺麗な放物線を描いて、ヤンを中心に半径10メードほどの円状にばら撒かれた。

オオゥ、オゥ、オゥ、オゥ! 

と、ダダルたちは喜びの鳴き声を上げる。ヤンは、そのダダルの鳴き声の強さや張り具合で、彼らの体調がわかるようになっていた。今日も、ダダルは全員健康だった。

スコップでの朝食配りを三回繰り返すと、それでいったん、ここでの仕事は終わりになる。ヤンは餌入れの重たい蓋を閉め、スコップを片付けると、叔母のユリの家に向かった。ユリ・ドー。ヤンの母の妹。黒く大きな瞳。すっきりとした鼻筋に、形の整った血色の良い唇。ヤンは昔から、この星で一番の美人はユリだと思っている。だがそれを言うたびに、ユリはヤンに、

「ヤンのお母さんは、私なんかよりずっとずっと美人だったのよ」

と言った。そして、

「ちょっと美人過ぎたのよね。だから、あんなことに……」

と付け加え、少し哀しそうな顔をする。その表情が見たくなくて、やがてヤンは、ユリの容姿を褒めることをやめてしまった。でも、意見は変わっていない。冬を三度越し、四人の子供の母となっても、この星で一番の美人はユリだ。ヤンはそう思っている。

ドーの人たちの家は、どれも良く似ている。砂岩からくり抜いた赤い石を積み上げ、その上に、ホルンという草で葺いた屋根を乗せている。ドーの石は、どれも中に無数の気泡を持ち、強度は弱いが断熱効果は高かった。ホルンは根に殺菌力のある油を含んでいて、それらの香りは心を穏やかに保つのにも効果があると言われていた。そうした家の扉に、主である女たちはそれぞれの気に入りの花を飾る。それが、表札の代わりでもあった。ユリはいつも、扉にハミンという花を飾っていた。ひび割れた赤い砂岩の間に咲く、星の形をした黄色い可憐な花だ。それは、ヤンの好きな花でもあった。ヤンが来た時、ハミンの扉の外にまで、既に美味しそうなスープの香りが漂っていた。

「おはよう、ユリ」

そう言いながら、ヤンは家の中に入った。

ユリは、ちょうど山グミのサラダを盛り付けているところだった。その横で、ニタ婆が、フュルの木の枝で作った大きなスプウンで、火にかけた黒い鉄の鍋を一生懸命かき混ぜていた。芋と、ケートというドーの星の固有種である大型の牛の乳と、その乳で作ったチーズを使ったポタージュ・スープで、ヤンは、ニタ婆の作るこのスープが大好きだった。

「あれ? 今日は父さんたちは誰もいないの?」

そうヤンが訊くと、

「うん、そうなの」

と、短くユリは答えた。

「トイとアキは? 先に戻っててって、私、言ったんだけど」

そうまたヤンが訊くと、

「うん。ミラ叔母さんが、クロ団子が上手に出来たからトイとアキも食べにおいでって言ってきて。それで、今日はふたりはあっちで朝ご飯を食べることになったのよ」

と、ユリは説明した。

「ふうん」

ニタ婆が、スープの鉄鍋を囲炉裏の隅に動かし、代わりに、火の中心に暗褐色の平たい石を置きながら、

「ヤン。たまには、女家族で水いらず、というのも良いじゃろ」

と言った。そして、石の上に、ヤンの取ってきたダダルの卵をひとつ、手際良く割って落とした。ニタ婆。ユリの母。そしてヤン母であるマーサ・ドーの母。つまり、ヤンの祖母だ。

ドーの世界では、家族、というものの線引きは常に無いも同然で、すべての子供たちを、共同体の大人全員で分け隔てなく育てていた。それに、男も女も複数の相手と結婚することができたので、生物学的に誰が誰の父親か、たいていの場合ははっきりしなかったし、子供たちもそんなことは気にしなかった。どの子にも、たくさんの父親がいる。それをみんな、普通に嬉しく思っていた。だが父親と違って、母親はどんな子にも一人しかいない。母親は、常に明確だ。その明確さゆえに、母との絆、母の母との絆、母の兄弟との絆には、特別な強さがあった。幼い頃に母のマーサに死なれたヤンにとっては、つまり、ニタ婆とユリだ。なので、三人きりの朝食というのは、本来はとても幸せな食卓のはずだった。

(お説教かな)

そうヤンは、心の中で小さくため息をついた。四人もいるユリの夫が一人残らず今朝はいないというのもおかしいし、トイとアキにしても、クロ団子を食べるのは普通はおやつの時間だ。つまり、ニタ婆とユリは、男たちを全員追い出して、女だけの方が話しやすい会話をしようと考えているということだ。

(憂鬱だ……)

ダダルの卵は、あっという間に火が通る。それをニタ婆が素早くヘラですくって大皿に移す。スープはヤンがよそい、ユリの盛り付けたサラダと一緒に、十人以上が余裕で座れる大きな長方形のテーブルの真ん中に置いた。

「今日は、洗い物が少なくて楽そうね」

そうユリが笑いながら言った。

三人で、席に着く。

「今日も『あなた』の祝福が、私の可愛い子供たちと孫たち、そしてその子供たち孫たちの愛する者たちにありますように」

ニタ婆が、目を閉じ、両の手を胸の前で組み、低い声で言った。

「祝福がありますように」

ユリとヤンが声を合わせた。ニタ婆はそれから更に、

「この星に住む者だけでなく、遠い星に旅立った私の可愛い孫にも、ドーの『あなた』の祝福がありますように」

と付け加えた。

「祝福がありますように」

ユリとヤンも、もう一度、声を合わせた。

ヤンの兄が、この星を出て行ったのは、去年の秋のことだ。以来ずっと、ニタ婆は朝の祈りに必ず彼のことを付け加えた。

レイジ・ドー。

母のマーサがレイジを産んだ時、星全体が困惑でどよめいた。後に、ヤンはそうユリから聞いた。不吉だ、と言う者もいたという。ドーの星で唯一の、銀色の髪。そして、青みがかった灰色の瞳。それまでドーの星では、男も女も髪は黒く瞳は濃い茶色で、例外はひとりもいなかった。

「でも、私はとっても誇らしかったよ。レイジは、その年に生まれた他の誰よりも男前で、その上、とっても優しい子だったからね」

ユリがレイジの話をする時、ニタ婆は必ずそう付け加えた。ニタ婆のその言葉を聞くたび、幼いヤンは、いつも自分が褒められるより幸せな気持ちになったものだった。

レイジ・ドー。

ヤンの兄。

今、ヤンは、兄のことを考えると、少しだけ胸が痛くなる。

その日、ヤンの予想に反して、ユリもニタ婆も説教めいたことは言わず、強引なお節介を焼いて来ようともしなかった。遠回しに何かを探ってくるようなこともなかった。ただ、三人でサラダを美味しくいただき、ケートのポタージュ・スープを美味しくいただき、ダダルの卵焼きを美味しくいただいた。いつもと違っていたのは、食事の間じゅう、普段はとても饒舌なユリがずっと黙っていたこと。もし、ヤンが何かに悩んでいるのなら、あるいは心に何か引っ掛かりがあるのであれば、それを切り出しやすいようにあえて「会話の余白」を作っている。そんな感じだった。一方のニタ婆は、こちらは普段と同じに見えたが、最後、ご馳走さまの挨拶をしてヤンが立ち上がると突然、

「ヤン。おまえは冬を二度越した。だから、これからは自分の人生を思う通りに生きて良いんだよ」

と言った。

「え。急にどうしたの? ニタ婆」

「何も急じゃないさ。ただ、これだけは言っておく。私やユリ叔母より先に死んではいけないよ。それ以上の不孝は無いからね。さ、食事が終わったのなら、さっさとケートの世話に行きなさい」

なぜ、この日の朝に限ってニタ婆がこんなことを言ったのか、後々、ヤンは何度も思い返した。ニタ婆は若い頃、ドーの星にたったの十二人しかいない「夢見」と呼ばれる巫女だったという。あの時、ニタ婆は何か不吉な夢を見たのだろうか。だがヤンは、それをきちんと尋ねなかった。そこまで特別な何かがあるとは思わなかったのだ。それで、機会は永遠に失われてしまった。

朝食の後は、42頭のケートを引き連れ、南東にあるクロスの岩山に向かうのがヤンの仕事だった。岩山の中腹に、風をかわしつつ日当たりは良い平坦な草原があり、そこで日光浴をさせると、ケートたちの出す乳が香り良く濃厚になるのだ。草原まで、ケートたちのゆっくりとした歩みでほぼ2時間。首輪をつけたりロープで繋いだりしなくても、ヤンの吹く「ケート笛」の音色に、大人ケートも、生後まだ間もない子供ケートも、皆、整然と後ろをついてきてくれる。ヤンは、笛を吹きながらケートたちと赤い荒野を歩く時間が好きだった。同世代の友達は、皆、日々の仕事より恋人選びに夢中になっているらしかったが、ヤンはひとりで、ダダルやケートと過ごす方がなぜか落ち着くのだった。

と、ちょうど、クロスの岩山まで半分、というところまで来た時、東の方から、

「ヤーン!」

という呼び声が聞こえた。振り向くと、遠くの小高い丘の上に、ハナ・ドーが立ち、ヤンに向かって大きく手を振っていた。くるくるとした黒い巻き髪。がっしりと筋肉質な身体。朗々とよく伸びる、美しい声。

「ヤン! ちょっとそこで待ってろ! 俺も一緒に行くから!」

そうハナは叫んだ。

「ビッグ・ニュースが来た!」