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第二章 3

二ヶ月前の今日。それは、これまでのサラ・ヴェリチェリの人生で、下から二番目にあたる酷い一日だった。(最悪の日については、また別の時にゆっくり語りたいと思う。聞いてくれる人がいるのなら、だが)

昼食を終えてから、夕方に予定されていたハムダル経済財政会議までの間。サラは溜まり気味の決済事項をこの時間で片付けようと、ひとり、執務室に籠もっていた。

と、強目なノックの音が三つ。そしてサラからの「どうぞ」の言葉より先にドアが開き、女性がふたり、入ってきた。サラは、自分の端末画面を切り替え、カレンダーに目をやった。

「すみません。アポは入れずに来てしまいました」

先に入ってきた女性が、そう言って頭を下げる。そして、まったくすまなそうな表情は見せずに、執務室の奥にある応接スペースのソファに腰をかけた。サラは、自分の仕事を中断し、その女性の向かい側のソファに移動した。

「直接会うのは久しぶりね。ノア」

「そうですか? 頻繁にお会いしていると思ってましたが」

そうノアと呼ばれた女性は答える。

「先々月もお会いしましたし、先月は二度もお会いしています」

サラは、思わず苦笑いをした。「あなたは大統領の筆頭補佐官なのよ? 普通、補佐官というものは、毎日毎日大統領と一緒にいるものよ?」 そう言いたい気持ちはあったが、口には出さなかった。この女性は、サラが自らスカウトしたのだ。毎日ザ・ボックスに出勤しなくても良いのなら、という条件を呑み、まだ若いこの女性を自分の筆頭補佐官に抜擢した。名前は、ノア・クム。ピュア。ハムダル宇宙大学を主席で卒業。学生時代の専攻は人工知能研究。背は低く、肌は色白だが、よく見るとうっすらとした灰色のシミが、左の目の横、頬骨、あと鎖骨の上あたりにある。髪は金色だが、他のピュアの金髪のような輝きが足りず、錆びてくすんだような色をしている。角膜が薄くて視力矯正の手術が出来ないため、ピュアの中では珍しく、分厚い眼鏡をかけている。彼女を抜擢した時、同じピュアの男性たちから幾度となく「スタンド・プレイ」と陰口を叩かれた。そして「どうせやるなら、もっと美しい女にすれば良いのに。あの見た目じゃ効果も半減だよな」と言われたものだった。サラは、それらの言葉をすべて無視した。ノア・クムの頭脳こそ、ピュア1万人の中で最も優れた頭脳だと確信していたからだった。

「で、突然の訪問の理由は何? 外出嫌いのあなたが、アポも取らずにここに来るなんて、どんな非常事態が起きたのかしら」

少し嫌味っぽく微笑みながら、そうサラはノアに尋ねた。

「オンラインですと、盗聴の危険性をゼロには出来ないので」

表情を変えずにノアが答える。

「盗聴?」

「はい。私と大統領のホットラインではその可能性は極めて低いとは思いましたが、それでも万が一ということはあり得ますからね」

「あら。それだったら、この部屋だって同じことじゃない?」

「いえ。ここに入ってから、ずっとゴフェルがこの部屋をスキャンしています。どんな微弱電波でも、ゴフェルの目は誤魔化せません。大丈夫です。この部屋は、少なくとも今は、盗聴も盗撮もされていません」

ゴフェルというのは、ノアに続いて入ってきた長身の女性で、彼女のSPだ。今日も、真っ黒な防弾防刃のナノマテリアル生地で作られた「盾」の特別制服を着込んでいる。ゴフェルがそれ以外の服を着ているところをサラは見たことがなかった。今は、入り口すぐの壁際に黙って立っている。

「なるほど。そう言われると、ますます訊くのが怖くなっちゃったけれど、でも、聞かないわけにはいかなそうね。何があったの?」

覚悟を決めてサラは訊いた。

「大統領。恒星レクトポネです」

「え?」

「探査機からの信号が消失しています。原因は、超新星爆発によるガンマ線バーストと見て間違いありません」

「あら」

子供が大切な皿を落として割った、くらいのテンションで、サラは言った。かつてないほどの非常事態であることは瞬時に理解した。だからこそ、ここで狼狽えては絶対にいけないと反射的に思ったのか、出てきた言葉が「あら」だった。ノアは、サラが思考を整理するまで待つつもりのようだった。

「確か、観測所からのレポートでは、超新星爆発までには、早くてもあと900年から三千年くらいはあるだろうって」

そう言ってから更に自分で、

「でも、宇宙の時間スケールを考えたら、900年なんて誤差もいいところよね。あら、本当に困ったわ。レクトポネ対策予算を来年こそはきちんと計上しようと根回しをしていたところだったのに」

「その根回しの話、去年もされてましたよ。あと、一昨年も」

「仕方がないでしょう。お年寄りたちは、みんな、自分のお金は自分のために使いたいのよ。そして、大きな問題であればあるほど、ひ孫のひ孫のそのまたひ孫の更にその先の子孫に押し付けたいって人たちばかりなのよ」

「残念ですが、私たちの子孫に問題解決を先送りするのは不可能になりました」

それから、ノアは、少しだけ声を低くし、

「正確には、とっくに先送りは不可能になっていたのです。私たちが知らなかっただけで」

と言った。

「とっくに?」

「はい。とっくに。具体的には、12年前に」

サラは、その言葉の意味を理解するのに、少しだけ時間がかかった。

「レクトポネは、確か、ハムダルから13光年の距離よね?」

「そうです」

「ということは、ガンマ線バーストがハムダルに到達するのに13年かかるのよね?」

「そうです」

「ガンマ線バーストが到達するとどうなるのかしら」

「死にます。ピュアもビジターも全員。ごく原始的な微生物以外はすべて死滅し、ハムダルは数万年は命の生まれぬ星となるでしょう」

「シェルターなどで、そのガンマ線バーストをやり過ごすことは出来ないのかしら」

「今の私たちの科学力では、死ぬタイミングをほんの少し先延ばしにする効果しかありません」

「あら、そう」

ここまでは、わざわざノアに訊くまでもなく、サラにも判っていた。そもそも、赤色巨星である恒星レクトポネとわずか13光年しか離れていないというリスクは、二千年前のザ・クラッシュ直後から、ずっとピュアたちは理解していた。歴代の大統領たちは、全員、恒星レクトポネ対策の必要性を、後任の大統領に申し送りをしてきた。ただ、どの時代にも「喫緊の問題」というやつはあり、数百年数千年先の問題よりも、皆、その喫緊の問題に先に取り組んだ。結果的に、恒星レクトポネに対する備えは、ひたすら先送りされ続けてきた。これまでの二千年の間。ずっと。

「で、ガンマ線バーストは、いつ、ハムダルに来るのかしら」

サラは訊いた。

「一年と二ヶ月後です」

ノアは答えた。

「あら」

サラはまた同じリアクションをした。

「あら、あら、あら」

ノアが、万が一にもこの情報が漏れることを警戒した理由はよく判った。対応策を講じる前にこの情報が世に出たら、社会はどれほどの混乱状態になることか。

「なぜ、その報告が12年も遅れたのかしら。いや、そんなことよりも、あと一年で私たちには何が出来るのか、そっちの質問を先にすべきかしら?」

ノアは即答だった。

「心情はお察ししますが、今は、この先の一年のことを先に考えるべきかと思います」

「それは、そうよね」

「少数の信頼できる人間を集めて、本日すぐに、対策チームを立ち上げるべきと考えます。僭越ながら人選も考えてきました。まず、星防省星防委員会会長のランバル・ランバート。それからハムダル宇宙大学宇宙物理学教授のヒース・イジョル。星間科学財団理事長オルト・スワンソン。宇宙航空学研究所所長で工学博士のスタイ・モリジル。そして私とゴフェル」

「ゴフェル?」

サラは、ドアの脇に無表情に立つゴフェルをチラリと見た。

「彼女は絶対に必要です」

ノアの語気がほんの少し強くなった。

「なるほど。あなた、もう、プランがあるのね?」

「……まだ、完全ではありませんが」

「そう。素晴らしいわね。で、今名前が上がったお偉いさんたちには、もう連絡はしているの?」

「いえ。大統領の了承を得てからと考えていました」

「私に異論はないわ」

「わかりました。では、第一回の対策会議を二時間後に。すべての予定をキャンセルして駆け付けるよう、大統領の名前でアナウンスします。場所はこの執務室にしましょう」

「ここなら盗聴器も盗撮カメラも無いからね」

「はい、そうです」

最後の一言はジョークのつもりだったのだが、ノアはニコリともしなかった。

「ゴフェル」

ノアが彼女の名前を呼ぶ。ゴフェルはそれだけで、

「はい。たった今、4人にテキスト・メッセージを送信しました。ランバル・ランバート。ヒース・イジョル。オルト・スワンソン。スタイ・モリジル。そして、大統領の今日のこの後の予定もすべてキャンセルの連絡をしました。ハムダル経済財政会議。ヒヒム外務大臣との打ち合わせ。インタビュー2件。写真撮影付き1件。そしてジャーナリストたちとの会食に15分だけ出席」

と返答した。

サラは突如、何でも良いからレクトポネと無関係な会話をしたいという強い欲求を感じた。それでノアに、

「ねえ、ノア。ゴフェルっていつも無表情なの? 笑ったり出来るの?」

と質問をした。

「ゴフェル」

ノアがまた彼女の名前を呼ぶ。と、ゴフェルはサラに、とびっきり明るい笑顔を向けた。笑ったゴフェルは、どんなモデルよりも美しく、愛らしかった。その外見は、「パーフェクトな美しさ」と評されている我が娘ハク・ヴェリチェリよりも上だなとサラは思った。

「では、大統領。2時間後に」

そう言うと、ノアはゴフェルの開けたドアから音も立てずに出て行った。こうして、サラは、ひとりに戻った。

「さて、と」

あえて声に出して言ってみた。

「これから、どうしようかしら」

そうわざと独り言を口にしながらサラは立ち上がった。

2時間後の会議の結論は、とっくに予想は出来ていた。

宇宙船に乗って逃げる。

他に選択肢は無い。

ワープ航法が可能な宇宙船に乗って、光より速いスピードで逃げる。それ以外にガンマ線バーストという名の死神から逃れる術があるとは思えなかった。

では、その宇宙船は何隻あるのか。その宇宙船に、いったい何人の人間が乗り込めるのか。ハムダル本星だけで1億の人間がいる。だが、この脱出の船は、ただただ大勢を乗せれば良いというものではない。新たなる母星を探す、その気の遠くなるような長い旅に耐えうるだけの生態系も、宇宙船の中に構築しなければならない。あと、燃料。ハムダルの限りある燃料を何隻の宇宙船で分け合うのか。補給はどうする。ああ、そもそも、私たちはこれからどこを目指すのか。

サラ・ヴェリチェリは勤勉な政治家だったので、それらのシミュレーションをかつて何度かしてみたことがあった。なので、宇宙船の数も、そこに乗り込める人数も、実は前々から知っていた。それは、絶望的としか言いようのない数字だった。

それからふと、サラ・ヴェリチェリは、自分の娘のことを考えた。

娘のハクは、今、宇宙船の副パイロットとして初飛行の真っ最中だ。宙域は……宙域は、幸いなことにレクトポネとはほぼ真逆の方向だ。初飛行を中断させるのは可哀想だが、帰ってきてもらわなければならない。それは、ハクが自分の娘だからではない。ハムダル・ピュアとして、現時点で最高のスコアを持っているのがハク・ヴェリチェリだからだ。今日の会議がどんな結論になろうとも、脱出船に乗る最初のひとりがハク・ヴェリチェリであることは間違いない。それが、「種の保存」ということだ。

それからサラは、今度は自分のことを考えた。私はどうだろう。私もかつてはそれなりに高いスコアを持っていたが、今はもう生殖能力は無い。「種の保存」という原則から考えれば、私はもう不要の人間だ。船には乗れない。それからサラは、とある男性のことも考えた。彼はどうなるだろう。彼は、ビジターだ。彼を、ハクのように船に乗せる方法はあるだろうか。

「バカか、私は!」

思わず叫んだ。何をくだらないことを考えているのだ。ソファを蹴り、それからその蹴ったソファにどっかりと座って天を仰いだ。執務室の壁の最上部に飾られている、ハムダル歴代の大統領たちのポートレートたちが目に入った。右から左へ、就任順に並んでいる。一番左は、サラの父親であるボア・ヴェリチェリ。誰にも告白したことはないが、サラは、実の父親のことが大嫌いだった。尊大で傲慢で、そのくせ無能な男だ。この男が大統領だった時ではなく、自分が大統領の時にレクトポネが爆発したことを、絶対にハムダルの幸運としなければ。そうサラは自分を鼓舞した。

サラは立ち上がり、地下5階にある「盾」の詰所への回線を開いた。

「メイ・ウォン。聞こえる? 聞こえても返事はしないで欲しいのだけど」

回線の向こうで、「え? だ……」と慌てているメイの声が聞こえてきた。

「あなた、今日の勤務はあと15分で終わりよね? その後、時間ほど空いてないかしら?『はい』か『いいえ』だけで答えてちょうだい」

「え……は、はい。空いてはいますが……」

「良かった。じゃあ、私、15分後に下に降りるから、あなたのビークルをエントランスに付けておいてくれるかしら?」

「え? 私のですか?」

「そうよ。間違っても大統領車とかの出動を申請してはダメよ。私はあなたのビークルに乗りたいんだから。あと、これはプライベートだから、上の人間に報告とかも不要だから。良いわね? じゃ、15分後に!」

それだけ言うと、サラは回線を閉じた。狭い部屋の中にいても、良いアイデアが浮かぶ訳がない。ノアの召集する会議までの間、いつもと違う場所、いつもと違う景色の中で、これからのことを考えるべきだとサラは思ったのだ。

聖なる広場に行ったことには、あまり深い理由はない。サラは、ただ、見ていただけだ。手を繋ぎ、腕を絡めている若い恋人たち。あるいは、風の匂いを楽しむようにゆっくり歩く、年老いた夫婦。乳母車を押す母親に、小さな子供を肩車している父親と母親。揃いの民族衣装で踊る若者たち。ベンチで本を読む女性。芝生に寝転がる男性。たくさんの屋台が出ていて、それぞれの出身の星の料理を売っている。それを珍しそうに別の星の人間が笑顔で買う。売る方ももちろん笑顔だ。食べる。「美味しいよ」とジェスチャーで伝える。売った方も「ありがとう」とジェスチャーで伝える。そんな光景を、サラは、ただ、見ていた。自分が救えないであろう人たちを見ていた。あるいは、救わないとこれから決めるであろう人たちを見ていた。いや、諦めるのはまだ早い。まだ、一年と二ヶ月という時間があるのだ。そう心の中で繰り返し呟きながら、サラは、ただ、見ていた。だが、ひとつとして良い考えは浮かばなかった。何も思い浮かばないまま、サラは、大統領執務室に戻った。

彼女が部屋に入った時、ノアが名前をあげたメンバーは既に全員揃っていた。

ランバル・ランバート。星防省星防委員会会長。外見は、好好爺という形容詞がぴったりな白髪の老人。いつも穏やかな微笑みを浮かべている。サラの父・ボア・ヴェリチェリとは宇宙大学の同級生で、よくヴェリチェリ家に遊びに来ていた。幼い頃、サラはよく「ランバルが父親だったら良かったのに」と思ったものだった。年齢を考えると、ランバルも船には乗れないだろう。一緒に死ぬことになりそうだ。

ヒース・イジョルとスタイ・モリジル。ワープ航法と超長距離型量子エンジンのそれぞれ第一人者。

オルト・スワンソンは、星間科学財団の理事長で、人材も資材も予算も、彼がいれば瞬時に手配が可能だ。

そして、大統領筆頭補佐官のノア・クムと、その「盾」であるゴフェル・コード・9999フォーナイン

「皆さん。来てくれてありがとう。早速、始めましょう」

サラは言いながら、会議に邪魔が入らないよう、外部からの回線をすべてオフにした。ノア・クムが、各自のモニタに、現時点の宇宙船の数。搭乗可能人数。航行可能距離。補給可能地点。そして、航海の目的地を選定するためのハビタブルゾーンと推定される宙域リストなどを表示した。誰もが理解をしていた。近距離ならば大勢が一度に逃げられるが、その逃げた先で結局はガンマ線バーストに追いつかれる。100光年先に逃げただけでは、たった100年で追いつかれる。ならばもっと遠くに、可能な限り遠距離に逃げるなら……今度は、救える人数が激減する。限られた最新鋭の艦に、資材も燃料もすべて集中させなければならないからだ。新たに作るにしても、ハムダル星に残された時間は一年と二ヶ月しかない。

オルト・スワンソンが最初に手をあげた。

「非常事態の時ほど、私は、原理原則に沿って私情を挟まず行動すべきと考えます。最も大切なのは『種の保存』。ならば、まずはスコアの高い選りすぐりの人材を優先して……」

が、オルトは最後まで話すことが出来なかった。警備班の職員がひとり、いきなり大統領執務室に飛び込んで来たからである。

「大統領! 大変なことが起きました」

そう彼は叫んだ。

「私が良いと言うまで、この部屋には立ち入り禁止と言ったはずですよ!」

サラが強い口調で咎めたが、その職員は話すのをやめなかった。なぜやめなかったのかは、彼の報告内容を聞いて全員がすぐに理解した。回線がオフにされていたからこそ、わざわざ直接飛び込んできた彼の気持ちも理解した。

「ドーという辺境の惑星で、宇宙船D-227の乗組員が、現地住人に殺害されるという事件が発生しました」

その職員は、悲痛な面持ちでそう言った。

「D-227?」

「はい。宇宙船D-227には、大統領御令嬢のハク・ヴェリチェリ様、そして、ノア・クム筆頭補佐官の妹様のエリ・クム様がご搭乗でした」

「!」

「詳細はまだ判明しておりませんが、少なくともピュアふたりが殺害され、残りの方も拉致をされて生死不明とのことです」