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第一章 4

「りんごが箱から出た」

これは実は、暗号でも何でもなかった。ハムダル星で初の女性大統領であるサラ・ヴェリチェリは、頬のチークがいつも少し赤めだったので、彼女を嫌うビジターの星民たちからは「お高いりんご」と陰口を叩かれていたし、その彼女が執務する大統領府は、ママの大嫌いなハコ……バンドー沖の小島に建つ純白の立方体=「ザ・ボックス」の中にあったからである。

ママが、狙撃者の少女とクラッシュの塔で出会った頃、ハムダル星防省星防局警備部警護班、通称「盾」に所属するメイ・ウォンは、ザ・ボックスの地下五階にあるVIP専用エントランスの車寄せで、サラ・ヴェリチェリが来るのを待っていた。

「そんなに緊張するなよ、メイ。こっちまで緊張してくるだろう」

メイの上司に当たるボフ・ライが苦笑いを浮かべて言った。

「すみません。でも、二ヶ月ですからね」

と、メイは答えた。メイは、大統領の専属SPであるにも関わらず、なんと二ヶ月も、自分が守るべき大統領その人の顔を見ていなかった。サラ・ヴェリチェリは、二ヶ月間、ザ・ボックスに閉じこもったままで一度も自宅に帰らなかったし、メディアの取材も受けなかった。公の場に一度も出席をしなかったし、オンラインで演説をしたりコメントを発表することもなかった。大統領の執務室で寝泊りをし、ごく限られた側近以外は中に入ることも出来なかった。ハムダルじゅうが騒然となったあの事件……それは、大統領という立場だけでなく、サラ・ヴェリチェリ個人としても直接関係する大事件だったが、その時でさえ彼女は執務室から出て来なかった。世間の半分は、サラ・ヴェリチェリは仕事をサボっていると非難し、残りの半分は、彼女が何か重い病いを患っているのではないかと疑い始めた。メイは後者だった。サラはメイにとって恩人だった。兄とふたり、タイスという貧しい星からハムダルに出稼ぎに来て、「矛」でも「盾」でもないヒラのパートタイム巡査として働いていたメイを、サラは大統領付きのSPに抜擢してくれた。そして、ピュアのトップとは思えないほどフレンドリーにビジターであるメイに接してくれた。メイはこの二ヶ月の間、ずっとサラの体調を案じていた。が、ザ・ボックスは、ピュア専用の建物であり、許可を受けた特別なビジターであっても、最下階である地下五階より上には入れない。なのでメイは、サラを見舞うことも、故郷の星タイスから送ってもらった滋養強壮に素晴らしい効果のあるスーパーフルーツ・アルウォンを彼女に手渡すことも叶わなかった。

「二か月も、いったい何をしてたんだろうな」

ボフの口調はのんびりしていた。

「でもまあ、これから広場で演説するって言うんだから、重病説は間違いだったってことだろ?」

そうだと良いのだけれど、とメイは心の中で呟いた。

発表は昨夜だった。ハムダル星にある412の映像チャンネルと300の音声チャンネルが、いきなりすべて、政府からの緊急放送に切り替わった。スリープ中のものは、すべて遠隔装置でオンに切り替わった。

「ハムダル星とその衛星に住むすべての星民の皆さま。こんばんは」

その時、メイは小型のビークルで帰宅の途中だった。音量を抑えめにして、故郷のタイスの音楽をかけるラジオを流していたが、突然、ボリュームが上がり、そして、聞き覚えある女性官僚の声が流れ始めた。

「明日の1630分。聖なる広場にて、サラ・ヴェリチェリ大統領が、ハムダル星のこれからについて皆さまに重大な発表を行います」

メイは慌ててブレーキを踏み、ビークルを道の端に止めた。そして、音声チャンネルを、映像チャンネルに切り替えた。大統領の補佐官たちの中で、最も若い、ノア・クムという女性が、ひとり、マイクの前に座ってこちらに向かって語りかけていた。

「明日の1630分。聖なる広場です。お時間のある方は、ピュアの皆さまも、ビジターの皆さまも、是非、聖なる広場に足をお運びください。それが難しい方は、ぜひ、大統領演説の中継をご覧ください。当日、すべてのチャンネルは、サラ・ヴェリチェリ大統領の演説中継に切り替わります。とても異例なことですが、それだけ重大な発表なのだとご理解ください。ご静聴、ありがとうございました」

次の瞬間、スッとボリュームが下がり、チャンネルは通常放送に戻った。

一体、何が起きているのだろう。メイは、停止したビークルの中でしばらく考えた。ピュアだけでなく、選挙権の無い大勢のビジターたちまで集めて、大統領は一体何を語ろうというのだろう。と、仕事用のコール音が鳴った。上司のボフ・ライからだった。

「放送を聞いたか?」

「はい。聞きました」

「なら、すぐに『盾』の詰所に戻れ。明日の朝までに、聖なる広場の警備計画を立ち上げて人員を配置しなけりゃならん。大混乱だよ」

「すぐに戻ります」

予定の時刻ちょうどに、大統領専用エレベーターのドアが開いた。最初に出てきたのは、真っ黒な防弾防刃のナノマテリアル生地で作られた「盾」の特別制服を着込んだ、ゴフェルという女性だった。この身長1.8メードの長身の女性は、普段はノア・クム大統領補佐官付きのSPだが、「盾」セクションで最も身体能力が高く、最も格闘技に秀でていることから、今日の聖なる広場での演説終了までは、大統領の一番近くで警護に当たることになっていた。

続いて、白髪の老人、ランバル星防委員会長。移動リストに彼の名はなかったのでメイたちが驚くと、

「わしは行かんよ。ただの見送りさ。あんな空気の汚いところ、たとえ命令されたって行くものか」

と、苦笑いをしながら彼は言った。

そして、その奥から、白いスツゥを身に纏ったサラ・ヴェリチェリが現れた。スツゥというのは、公式の行事の時にピュアが着る、薄く光沢感のある生地を使った衣装で、その中でも白は、ピュアを象徴する色ということで、特に重要な場でのみ着用するのが慣例だった。

「皆さま、お久しぶりね」

そう言って、サラは盾の隊員たちに微笑んだ。顔色は良く、足取りもしっかりしていた。メイは、安堵のため息を小さくつきながら、大統領車の後部ドアを開けた。サラが乗り込む。メイも続いて乗り込み、サラの隣りに座ってドアを閉める。反対側のドアからはゴフェルが乗り込み、メイと二人でサラを挟み込むように座った。助手席には、ボフ・ライが。運転席には、ギリというベテランの隊員が乗った。大統領車は基本的には自動運転だが、何か予期せぬトラブルが起きた時は、このギリによる手動運転に切り替わる。そして、前後に、大統領車と同じ外観の車が二台。スンッというとても小さな音とともに、三台は同時に動き始めた。

と、サラがメイに顔を近づけ、耳元で囁いた。

「そう言えば、この間はありがとうね。とても助かったわ」

「え?」

「あらやだ。もう忘れちゃったの? たったの二ヶ月前のことよ?」

もちろん忘れてなどいない。二ヶ月前、サラがザ・ボックスの執務室への閉じ籠りを始めるその前日、メイはサラにプライベートな頼まれごとをされたのだった。ただ、二ヶ月も経ってから、改めて礼を言われるほどのこととはまったく思っていなかった。

二か月前。「盾」の詰め所で待機中だったメイのイヤホンが、突如、通信回路を開いた。

「メイ・ウォン。聞こえる? 聞こえても返事はしないで欲しいのだけど」

「え? だ……」

メイは「大統領?」と聞き返しそうになったのを、すんでのところで踏み止まった。

「あなた、今日の勤務はあと15分で終わりよね? その後、1時間ほど空いてないかしら?『はい』か『いいえ』だけで答えてちょうだい」

「え……は、はい。空いてはいますが……」

その日は、兄のルオと、その新婚の妻シーと、三人で夕食を一緒にすることになっていたが、メイは反射的に「空いている」と答えた。なぜって、相手は大統領なのだ。と、サラは、

「良かった。じゃあ、私、15分後に下に降りるから、あなたのビークルをエントランスに付けておいてくれるかしら?」

と言った。

「え? 私のですか?」

「そうよ。間違っても大統領車とかの出動を申請してはダメよ。私はあなたのビークルに乗りたいんだから。あと、これはプライベートだから、上の人間に報告とかも不要だから。良いわね? じゃ、15分後に!」

そこで通話は切れた。メイは、しばし茫然となったが、ハッと我に返ると、地下5階のエントランスの外にあるビジター専用の駐車場に向かって走り出した。「盾」に抜擢された時に、思い切ってローンを組んで買った中古のビークル。カタツムリに似た形と深い緑色が気に入っていたが、自分か、せいぜい兄に貸すこともあるかも、くらいにしか考えていなかったので、ピュア向けの機能は完全にゼロだった。窓ガラスは紫外線カットガラスではないし、空気清浄機能も無いし、座席などの素材も抗ウイルス素材では無い。こんなものに大統領を乗せて良いものかメイには判らなかったし、そもそもなぜ、快適性もセキュリティも万全の大統領車は嫌なのかも判らなかった。とにかく、大慌てで車内の清掃をし、エントランスの車寄せまでビークルを回した。と、その時にはもう、サラ・ヴェリチェリは先に来てエントランスにひとり立っていた。

「このビークル、あなたに似合ってるわね。とっても可愛いわ」

そう言いながら、サラは自分で後部座席のドアを開け、中に乗り込んで来た。そして、

「私のわがままを聞いてくれてありがとう。さ、出発してちょうだい」

と言った。

「どちらに向かえば良いでしょうか、大統領」

緊張で声をやや上ずらせながらメイは尋ねた。

「ちょっと家に忘れ物をしたので、取りに戻りたいのよ」

「ご自宅ですか? それでしたらやはり大統領車の方がよろしいかと。私のビークルでは、カプセル型道路に入れないので、時間が倍以上かかってしまいます」

「大した差じゃないわよ、そんなの。それより大統領車だと大袈裟だし目立つから、気軽に遠回りも出来ないでしょう?」

「遠回り、ですか?」

「そうよ。さ、とにかく出発してちょうだい」

メイは、サラの言葉に背中を押され、ビークルのアクセルを踏んだ。エントランスから、すぐに海底トンネルの入り口に。右は、VIPの居住区とザ・ボックスとをダイレクトに結ぶカプセル型道路。上下左右に敷き詰められた超伝導磁石の働きで、専用車はこのカプセル道路の中では中空に浮き上がる。タイヤを車体の中に格納し、カプセルの中を時速900キロメードで滑空すれば、海底トンネルを通過するのに5秒程度しかかからない。海底を抜けるとそのまま今度は高架道路となり、信号機なども一切なくそのまま居住区まで安全に帰ることが出来る。カプセルの中は完全にクリーンな空気で満ちているので、健康面のリスクも無い。一方の左は、メイなどのビジターたちが、ゴム製のタイヤで路面を走って通勤してくる道路である。こちらは、海底トンネルの出口がバンドーの埠頭の左端に作られており、そこからは地上を普通に走ることになる。

左にしか入れないので、メイはそちらにハンドルを切る。カタカタと小さく振動しながら、メイのビークルは走った。と、後部座席からサラが

「聖なる広場に行きたいわ」

と言った。

「聖なる広場、ですか?」

「そうよ。このくらいの時間だと、屋台が出ていたり、大道芸人がいたりして、とっても楽しく賑わっているのでしょう?」

あの時、言われるがままに、メイはサラを聖なる広場まで連れて行った。彼女はビークルからは降りなかったが、わざわざ窓ガラスを開け、街の人々たちを見つめ、道ゆく彼ら彼女らの声にじっと耳を傾けていた。たっぷり20分も。

(あれは、何かの下見だったのだろうか)

あれから二ヶ月。再び、サラとともに聖なる広場に向かいながら、メイはそんなことを考えていた。

(彼女は何を見ていたのだろうか)

あの日、サラはずっと外だけを見ていた。まるで、この世界の見納めかと思えるくらいに。今日は違った。大統領車が出発すると、彼女はすぐにバッグからタブレットを取り出した。そして、これから行う演説の原稿をサーバから呼び出すと、改めてそれを読み返し始めた。車窓の景色には、何の興味も無さそうだった。

大統領車は、今日は左の一般車道に入った。カプセル型道路は、セキュリティ重視の設計で、ダウンタウンからは直接アクセス出来ないようになっているからだ。ゴム製のタイヤで時速130キロメードほどでゆっくりと進む。バンドーの埠頭の左端に出て、まず右折。そして、次に目抜き通りを左折。二ヶ月前に、メイがサラと走ったのとまったく同じ道順である。

(あの時、私はハク・ヴェリチェリの話をしたんだった)

メイは思い出す。サラから「何か楽しいお話をしましょうよ」と言われ、メイは、

「そういえば、ハク・ヴェリチェリさま、外宇宙への初飛行に出発されましたね。素晴らしいですね!」

と言ったのだ。その頃、世間はハク・ヴェリチェリの話題で持ちきりだった。祖父も母も大統領というピュアの中でも名家中の名家に生まれたこと。そして誰もが認める美人だったこと。それに加え、彼女が8歳の時に起きたとある流出事件が、ハク・ヴェリチェリをハムダル一の特別な人間にした。彼女がどういう生き方をし、どんな男と結婚をし、どんな子供を産むのか、ハムダルに住む者は皆、大なり小なり興味があった。ハク・ヴェリチェリがハムダル宇宙大学の外宇宙パイロットコースに進学を決めた時、人々は大いに驚いた。リッチ・カーオという若い大金持ちの投資家が、テレビで彼女に公開プロポーズをした時、人々は大いに盛り上がった。そのリッチの求婚より、副パイロットとして外宇宙に初飛行する方を彼女が優先した時、人々は更に盛り上がった。メイもそんなミーハーな人々のひとりだった。働く女性として、ハク・ヴェリチェリの生き方は、彼女にしばしば勇気を与えてくれてもいた。なので、メイはサラに心から、

「大統領もとても誇らしく思われているのではないですか? 本当におめでとうございます」

と言ったのだった。

あの時、サラはフッと寂しそうに笑って、

「あら、あの子、宇宙に行ったの?」

と言った。

「え? ご存じなかったんですか? ニュースでやっていましたよ?」

「だって、そんなの見ている暇、ないもの」

「え、でも……お嬢様とはご一緒に暮らしてらっしゃいますよね?」

「そうなんだけど……あの子、私にはとても無口なのよ」

そう言って苦笑いをした後に、サラは二度、小さな咳をした。

ハク・ヴェリチェリ。まさかその初フライトが、あんな結末になってしまうとは! 今、人々は、彼女の名前を滅多なことでは口にしない。不謹慎と思われてしまうからだ。メイもまだ、一度も直接、サラにお見舞いの言葉を伝えられずにいる。この車中で、もし気持ちを伝えるチャンスがあればと思っていたが、そんな雰囲気にはついに一度もならなかった。

大統領車の移動は順調だった。目抜き通りを直進し、3キロメードほどで、左側に聖なる広場が見えてきた。

と、「あ」という小さな声とともに、サラがタブレットから顔を上げた。そしてメイの方に向き直ると、

「メイ。私が引退した後は、ノア・クムの『盾』になると良いわ」

と、言った。

「え? どういうことですか、大統領」

「別に、どうもこうもないわよ。私ももう良い年なんだから、その後のことを考えておくのも必要でしょう? ゴフェル、これ、記録しておいてね」

ゴフェルは淡々と、

「メイ・ウォンは、サラ・ヴェリチェリ引退後にはノア・クムの盾となる。記録しました」

と復唱した。

「引退を、お考えなのですか?」

そうメイが尋ねたのと、大統領車が聖なる広場に入ったのが、ほぼ同時だった。防音の効いた大統領車の中にまで、集まった人々の歓声が大音量で響く。その中を突っ切り、演説を行うステージのすぐ脇まで車は進んだ。

「まだ引退は考えてないわよ。でもね、人生、いつ何が起きるかわからないから」

そうサラはメイに答えると、ゴフェルにガードされながら車の外に出た。メイも慌てて外に出て、サラがこれから立つステージの右側に立った。

クラッシュの塔の上で、ママの小型のトランシーバーに再び着信が来た。

「りんごが皿の上に乗ったよ」

今度は甲高い女の声だった。ママは少女を見た。少女は、もうかなり前から狙撃の態勢に入っている。表情には何の変化もない。

(こいつは、きっと外さないね)

そうママは心の中で思った。