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第一章 3

夜。ドーの地平線の向こうに恒星ドワが沈むと、ダダルもケートも眠りに就く。まだ一度も冬を越していない子供たちも、日没と同時に眠る。それ以外の者たちは、皆、仕事道具をしまい、集落の真ん中にある焚き火の広場に集まってくる。ドーの星では、夜はなるべく一族全員で同じ酒を飲むのがしきたりになっている。それぞれが、自家製の酒、チーズの燻製、木の実、干した野菜などを持ち寄り、炎の周囲に輪になって座る。

最初に祈りを捧げるのは、かつてはニタ婆の役割だった。今は、ホーンという名の、次の世代の「夢見」の巫女がその役目を担っている。

「今日も、この星の隅々にまで、『あなた』の祝福をありがとうございます」

ホーンは立ち上がると、目を閉じ、両の手を胸の前で組み、鈴のように転がる高い声で言った。

「祝福を、ありがとうございます」

炎の周囲に座る全員が、声を合わせる。

「明日もドーの『あなた』の祝福が、この星に住むすべての者にありますように」

ホーンが言う。

「祝福が、ありますように」

炎の周囲に座る全員が、声を合わせる。

(そして、遠い星に旅立った私の兄にも、ドーの『あなた』の祝福がありますように)

そう心の中でヤンは付け加える。残念ながら、この心の声には、周囲の唱和は無いのだが。

ホーンが座ると、大きな木の器になみなみと注がれた酒の回し飲みが始まる。ラーズという赤い木の根から作るドーの酒は、気温が急激に低下するこの星の夜には必需品と言っても良かった。一杯目は必ず一気に飲み干す。飲み干すと、器を高く掲げて「ドー!」と大きな声で叫ぶ。そして、器を左隣りの者に回し、酒を注ぐ。その周回が二周目、三周目と続く頃、自然と歌が始まり、そして踊りが始まる。夫婦で手を繋ぎ、親子で手を繋ぎ、恋人同士で手を繋いで踊る。そんな宴が、毎夜毎夜、双子の月がちょうど天頂付近に来るまで続く。いつもなら、ヤンももちろん歌を歌い、カングという太鼓を膝に抱えて叩く。が、今夜は違う。皆が楽しく酔い始めた頃合いを見計らって、ヤンはそっと宴の輪から抜けた。

「ビッグ・ニュースが来た!」

ハナ・ドーの興奮した声を思い出す。

「レイジの宇宙船が、今夜、ドーの星の上を飛ぶぞ!」

ヤンが向かったのは、集落から出て、徒歩15分ほどのところにある「天文台」だった。もちろん、本物の天文台ではない。まだヤンが小さな子供だった頃、たまたまレイジが、近くの小さな丘の上に、人が三人ほど寝そべるのにちょうど良い大きさの平べったい大岩を見つけたのだ。レイジはそこを「天文台」と名付け、レイジ、レイジの幼馴染みのハナ、そしてヤンの三人で、夜、一緒に寝そべってよく星を眺めたものだった。

ハナは、レイジと同じ日に生まれた。ハナの母のムル・ドーは、レイジとヤンの母であるマーサ・ドーと仲が良かった。それで自然と、ハナとレイジは毎日一緒に行動するようになった。ただの一日も例外は無かった。ふたりが生まれてから、レイジがドーの星を出て行くまで、ただの一日も。突風の吹くアンガーの岩山に登って遭難しかけた時も一緒だったし、ケートの背中に乗って速さを競い、ふたりとも落牛して骨折をした時も一緒だった。聖なる祠にこっそり忍び込み、大人たちから十回の平手打ちをされ、両手を開いたよりも長大な反省文を書かされた時も、ふたりは一緒だった。そして、そういう冒険の時は、ヤンはいつも留守番だった。兄が大好きだったヤンにとって、ハナは生まれた時からずっと敵わないライバルだった。

双子の月は、地平線から30度くらいの角度まで上がっていた。その月明かりは、足早に歩くヤンの後ろに、ぼんやりとした影をふたつ、作っていた。

ヤンが到着した時、ハナはもう、天文台の平たい岩の上に寝そべっていた。ダダルの虹色の羽毛を編み込んだ上着に、黒い麻のズボン。

「もう見えてるの?」

ハナの隣りに寝そべりながら、そうヤンが尋ねると、

「たぶんね。でも、星が多過ぎて、どれがどれだかわからないよ」

と、ハナは憮然とした声で答えた。

「そうか。でも、宇宙船なら星と違う動きをするはずだから、じっと見てたらわかるんじゃ無いかな」

「そう思ってさっきから一生懸命見てるんだけど、全然わからん」

不機嫌そうにハナは言う。

ヤンも空を見る。寒さによって空気は極限まで済んでいたし、空には雲ひとつ出ていなかった。なので、ヤンとハナの頭上に瞬いている星は、優に万は超えていただろう。

(この星空のどこかに、兄貴の宇宙船がいる……)

「ビッグ・ニュースが来た! 今年、一番のビッグ・ニュースだ!」

「ハナ! 何があったの?」

「電子メールが来たんだ。レイジのやつから」

「え?」

「聞いて驚け。なんと今夜、レイジの乗った宇宙船が、ドーの星の近くを飛ぶんだってさ!」

「ええ? 本当に?」

「まあ、近くって言っても、3光時間は離れてるらしいから、俺らが見るのは、時間前のレイジの船なんだけどさ」

あの時、ヤンは驚きと喜びで体がフワフワと浮き上がったように感じた。ほんの少しだけ、なぜそのメールはハナにだけで妹の私には無いのだろう……とも考えたが、そんなことより、レイジが元気であること、宇宙の船乗りになるという夢を無事に叶えたこと、そしてその栄えある彼の最初の航海を自分の目で見ることが出来ること、それらの喜びの方が圧倒的に優っていた。冷静に考えれば、宇宙船は自らはほとんど発光していないわけで、低空を飛ぶ人工衛星ならまだしも、3光時間もの遠距離となると肉眼で見えるはずが無いのだが、昼からずっと浮かれていたヤンは、今の今まで、そんなことにも思考が回らずにいた。

「そう言えば、おまえと一緒に天文台に寝そべるの、あの日以来だな」

ハナがボソッと言った。

「そうだね」

あの日というのは、レイジが初めて、自分の気持ちをハナとヤンに伝えた日のことだ。

「俺、ハムダルに行こうと思うんだ」

三人で川の字になって寝そべり、散々バカな話をして笑い、そろそろ明日の仕事に備えて家に帰ろうかというタイミングで、唐突にレイジは言った。

「ハムダルの大学に行って、そして、宇宙の船乗りってやつになりたいんだ」

ドーの星に住む者は、皆、幸せはドーの星にこそあると信じている。ドーの『あなた』の祝福のもと、愛する家族とともに歌い、踊り、笑い、そして助け合って生きることこそが、宇宙で一番の幸せなのだと信じている。なので、レイジより前にドーの星から出て行った者はなく、レイジより後に同じことをしようとした者もいなかった。レイジ・ドーは、この星で唯一の銀色の髪であり、唯一の青みがかった灰色の瞳であり、そして唯一、この星を自らの意思で出て行った者だった。以来、ドーの人たちは、レイジの話をほとんどしない。皆、レイジのことをどう思えば良いのか、心の整理がついていないようにヤンには見えた。今夜のことを、ヤンとハナが他の人たちにしなかったのもそのせいだ。

「ヤン、知ってるか?」

ハナがまた口を開く。

「レイジの乗ってる宇宙船、中の広さが6メード6メードしかないんだってさ」

「そんなに小さいの?」

「おう。『大きな世界に憧れちまう』とか言って出てったくせに、あいつの仕事場、うちのダダルの鶏小屋より小さいんだよ。笑っちまうよな」

ヤンがハナを見る。ふた筋の月明かりが、ハナの顔を照らしている。太くてキリッとした眉。大きく黒い瞳。美しく通った鼻筋に、精悍な顎。ハナの恋人になりたい妻になりたいと思う女が大勢いるのも当然だなとヤンは思う。が、ハナもまた、ヤンと同じく、春が来ても恋人をひとりも作らずにいた。それが、冬を三度以上越した大人たちを不安にさせていた。

「ハナはさ。結婚の話とか、言われないの?」

そう今度はヤンから聞いてみた。

「言われるよ」

星空を見つめたまま、ハナは答える。

「その時、なんて言ってるの?」

「夏までにはちゃんと考えるよって」

「あー、そうか。そう言えばいいのか」

言いながら、再びヤンも視線を星空に戻す。双子の月が、45度の角度まで上がったきた。ハナに来たメールの情報によれば、ちょうどそのくらいの時間に、天文台から見てほぼ天頂のあたりを、レイジの乗る宇宙船D-227号は航行予定らしい。が、今、その位置には、ドーの星空で双子の月の次に明るい「おおぼし」がいた。マイナス12等の明るさで燦然と輝く「おおぼし」は、その周囲の星をみんな霞ませてしまう。あの近くを航行中となると、ヤンの視力を持ってしても……ドーの人たちは皆とても視力が良いが、その中でもヤンはずば抜けて遠くを見る力に秀でていた……この空の中からレイジの宇宙船を見つけることはやはり無理そうだった。

「ヤンはどうなんだよ。ヤンの方が、俺よりいろいろ言われるだろ?」

ゴロンと体の向きを変え、ヤンを見下ろすようにしてハナが訊く。

「ハナと結婚したらって言われてる」

正直にヤンは答えた。

「それで?」

「それで?」

「その時、ヤンはなんて答えてんの?」

「あー、うん。それは、ハナから何か言われてから考えるって」

「なるほど」

「ハナは、私と結婚したい?」

ハナの答えは知っていたが、ヤンはあえて訊いてみた。

「そうだな。他の女とするくらいなら、ヤンとする方が良いかな」

「意味がわからない」

ドーの星は、愛しいという気持ちに偽りがなければ、何人と結婚しても良いのだ。誰かと比較する意味は無い。と、ハナは、

「意地悪言うのはやめろよな」

とヤンを軽く睨み、そしてまた元の仰向けの姿勢に戻った。

それからしばらく、ふたりはずっと黙ったまま、満天の星空を見つめていた。無数の星々を見ながら、ヤンは何度も、兄のレイジの言葉を思い返した。

「なあ、ヤン。そりゃ、俺だってドーの星は大好きだよ。大好きだけれど、でもちょっとだけ、ここは狭い気がするんだよ。なんでかわからないけど、俺は、もっとこう、ドーンと大きな世界に憧れちまうんだ」

と、突然ハナが「あれ?」と大きな声を出した。

「ヤン。今、『おおぼし』がちょっと大きくならなかったか?」

「は? 『おおぼし』は元々大きいんだよ。大きいから『おおぼし』なんだから」

「そんなこと知ってるよ。ただ、今、そのデカいのが、更にデッカくなってないかって言ってるんだよ?」

「はあ?」

他の星は、すべて、光る点でしかないが、「おおぼし」だけは、肉眼でもギリギリ、球体であることがわかる。なので、ドーの星の人たちはずっと、「おおぼし」とは、恒星ドワと双子の月の次にドーの近くにある星だと思っていた。実際は、「おおぼし」はドーの星から光速で40年近くかかるほど離れている。ヤンは改めて「おおぼし」を見た。言われてみると、完全な球体のはずの「おおぼし」が、やや横に膨らんでいるように見える。

「本当だ……」

ヤンが呟く。

「な? 変だろ? それも、前からじゃない。さっき急に、プクって横に大きくなったんだよ」

「でも、そんなの変だよ。星が急に大きくなるなんて、聞いたことないよ」

「あ」

「あ!」

「左側だけ、どんどん明るくなってきた!」

驚きと恐怖で、ふたりは同時に立ち上がった。「おおぼし」を凝視する。円形から楕円形に膨らんだように見えた「おおぼし」は、そのまま左側だけがグングンと明るさを増し始めた。そして、ほどなくそれはプツンと「おおぼし」から離れ、独立した一つの球体となって、流れ星のように夜空を滑り始めた。

「ハナ! あれは星じゃない。宇宙船だよ!」

「え?」

「宇宙船! どんどんこっちに向かってる!」

その数秒後、光球は、ドーの星の大気圏に突入した。彗星に良く似た真っ白い尾が、光球の後ろに伸びた。最初はやや東に。その後、微調整をしたのか今度は北に。すぐに、背後に大きな塊を放出する。開く。それは大きな銀色の傘だった。傘が開くと、見る見るうちに光球はその速度を落とし、速度が落ちるにつれ、その輝きも暗くなっていった。今やそれは、球ではなく、立方体に近い角ばった宇宙船だとはっきり視認できた。それは、ヤンとハナのいる天文台をかすめ、途方もなく大きな地響きとともに、北側に聳える岩山の中腹に突き刺さった。

気がつくと、ヤンは走っていた。そのヤンを、すぐにハナが追い越した。

(あれに、レイジが乗っているのでは?)

とっさにふたりは、同じことを考えた。レイジの乗る船は、光の速度でも3時間以上かかるほどの遠距離を通過予定だった。それがなぜドーの星に墜落したのか、ふたりには見当がつかなかった。とはいえ、こんな辺境の宙域に同時に二艘も宇宙船が航行しているとも思えなかった。月明かりを頼りに、夜の赤砂利の道をひた走る。と、背後から、12人乗りの大型のバギーがやってきた。何トンもの最上級のダダルの織物と交換した、ハムダル製の輪駆動の全地形対応車だ。ドーの星全体で台しか無い。そのうちの一台が、猛然と砂煙りをあげながらやってきた。運転をしていたのは、オオノキという冬を四つ越したヤンの大叔父。他の11人も全員、冬を三つ以上越した男たちだった。バギーは、ヤンを追い抜く時、少し減速をしてくれた。横っ飛びにバギーに向かって飛ぶ。タラップに足がきちんと乗らず、滑ってバランスを崩したが、三列目に座っていたカカという叔父がその太い腕でヤンをつかみ、自分の膝の上まで抱え上げてくれた。ハナは、バギーの最後尾にある荷台に飛びつき、少しだけ引きずられたが、自分の腕力だけでなんとかそのまま荷台に這い上がった。

と、前方で、銀色の宇宙船が、北の岩山の中腹から、再びふわりと浮かぶのが見えた。いつの間にか船体の四方に大きなプロペラが展開していて、その揚力で100メードほど上空をゆらゆらと宇宙船は移動していた。そして、ヤンたちの乗る12人乗りバギーの存在に気がついたのか、今度は彼らの前にゆっくりと降下してきた。

オオノキがバギーを止める。

砂塵を撒き散らしながら、宇宙船が着陸をする。

先ほどの岩山との激突で大破したかもとヤンもハナも心配をしていたが、驚くことに、宇宙船の銀色の機体には破損箇所どころか凹みひとつ無いように見えた。機体側面に印字された「D227」という黒い文字が、赤い砂で少し汚れているくらいだった。

「やっぱり、レイジの船だ」

ハナがそうヤンの耳元に囁いた。

D227って船に決まったんだって、あいつ、俺にメールで言ってたんだ」

なぜ、そういうこともレイジは、ハナにだけ伝えて妹の私には教えてくれないのだろう。そんなことを頭の片隅で思いつつ、ヤンは、宇宙船をじっと見つめた。ハナもそれ以上は何も言わず、オオノキやカカなどの年配の男たちも無言のまま緊張した表情で宇宙船を凝視していた。

一体、中では何が起きているのだろう。しばらく、宇宙船はそのまま静止していた。と、船体の一番下の銀色の部分に、突如ドアが出現した。無音でそれは前に迫り出し、裏側からまず、ひとりの乗組員が現れた。

「レイジ!」

ハナが叫んだ。

レイジ・ドーだった。ドーの星の男たちが大きくどよめいた。

「皆さん、お久しぶりです。里帰りが、こんな突然の形になってしまってごめんなさい。驚かせてしまいましたよね」

そうレイジは、少し照れたような笑顔で言った。

「兄貴!」

ヤンが叫んだ。レイジはヤンがいるのに気がつくと、小さく手を振った。そして、今度は船内の方を振り返り、(大丈夫なので出てきてください)と身振りで合図をした。と、ドーの星の男たちが、再び大きくどよめいた。というのも、最初に姿を現した女性が、ドーのような辺境の惑星の住人たちですら知っているような、超の字が付くほどの有名人だったからだ。

ハク・ヴェリチェリ。

ハムダル本星の大統領のひとり娘であり、ハムダル星系で最も高い「スコア」を持つことで知られるこの若き女性は、宇宙船を降り、辺りの景色をぐるっと見回してこう呟いた。

「……初めてなのに、とても懐かしい感じがするわ」