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第二章 2

「ハムダル星は、一年後に消滅します」

そう、聴衆に告げてから、サラは再び沈黙した。集まった1万の聴衆たちも、大統領からの意外な言葉にどう反応して良いか判らず、ただ沈黙したまま、サラの次の言葉を待った。

秒……

秒……

秒……

と、サラは突然、フッと笑顔になった。少し肩をすくめ、そして演壇の脇で護衛に立っているメイをチラリと見ると、イタズラ成功と言わんばかりに白い歯を見せた。それを見て、集まったビジターたちも、少し遅れたタイミングで、ドッと笑った。

それは、おそらく、緊張の弛緩の現れとしての笑いだった。

それまで、サラ・ヴェリチェリという大統領は、どちらかと言うと「厳格な」「融通の効かない」「滅多に笑わない」というイメージを持たれていたので、この場で最初にサラがジョークを言ったり、笑顔を見せたりしたことに、聴衆たちは驚くと同時に大いに安心感を覚えたのだろう。どうやら、今日は演説は、自分たちに良い話のようだ。おそらく、そう皆が思い、そして笑ったのだろう。

サラ・ヴェリチェリは、笑い声が収まるのを、柔和な微笑みを浮かべたまま、悠々と待った。何も、急ぐ必要は無いという雰囲気で。やがて、聴衆がきちんと話を聞こうと口を閉じると、サラは改めて演説を始めた。

「ハムダル星に暮らす全ての星民の皆様。今日は、私の話を聞くために、この『聖なる広場』に集まってくれたり、あるいは、仕事の手を休めて近くのモニターの前に集まってくれて、ありがとう。皆さん、今日は良い一日でしたか?」

群衆の中ほどから「イエース」と誰かが両手を上に突き上げながら叫んだ。

「イエス? それは素晴らしい」

サラは、その叫んだ聴衆に拍手をした。そして、

「実は、私にとっても今日はとても良い日です。なぜなら、この二ヶ月もの間、計画し、検討し、計算し、修正し、再計画し、再々計画し、昼も夜も休みなく準備をし続けたとても特別なプロジェクトを、ようやく皆さんにご報告できるからです」

と言って、再び微笑んだ。

「では、ちょっと失礼して……実は、今日は、カンニング・ペーパーを持ってきたの」

サラはストゥの内ポケットから、演説の原稿らしきものを取り出した。

「ふだんは、こんなもの無しで話すんだけど……だってほら。自分の言葉できちんと話さずに、役人に下書きさせた原稿をただ読むだけの政治家って格好悪いでしょう?」

(ここでもまた、聴衆は楽しそうに笑った)

「だから私も、原稿をただ読むだけの政治家にはならないぞってずっと思ってきたの。でも、今日は、一言の言い間違いも許されないと思っているので、自分の信念を曲げて、これを確認しつつお話しさせていただきますね」

そう言って、サラは原稿を開き、数秒、それに目を走らせた。

(演説の原稿は、タブレットに入れていたのでは?)

ここに来るまでの車中のサラを思い出し、メイは少しだけ不思議に思った。

聴衆は、静かに次のサラの言葉を待っている。重大な内容で、なおかつ、ビジターに良い内容となると、いよいよビジターたちにも選挙権が与えられるようになるのかもしれない。メイも、立場はビジターである。護衛者の仕事として油断なく周囲に目を配りつつも、心の中では、ここから始まるサラの演説に、メイも期待を持ち始めていた。

と、サラは、その広げた原稿を、パタンと閉じた。そして、

「そうだ。せっかくの機会なので、本題に入る前に、ひとつだけ、皆さんにお話しをさせてください」

と言った。

「ハムダル星にやってきたビジターの皆さん。皆さんが、日々の生活にいろいろな不満をお持ちなのは知っています。住環境のこと。子供の教育のこと。仕事のこと。あるいは給与のこと。ハムダル・ピュアとのさまざまな区別や格差。そういうことに不満をお持ちなのは私も知っています。でも、思い出して欲しいのです。そうした小さな不満を持つ前に、実は、あなた方は、それはそれは強運で、幸せな人たちなのだということを」

そう言って、サラは聴衆をまたゆっくりと見回した。

「たとえば、自動車のことを考えてみましょう。自動車の運転が出来る人は、この広場にもたくさんたくさんいるでしょう。でも、自動車のエンジンをひとりで組み立てられる人はいますか? ああ、少しはいますね。でもほんの少しです。では、自動車のエンジンを制御するコンピューターのプログラムをひとりで書ける人は? ああ、もうほとんどいませんね。では、そもそも自動車を自分で発明したという人は? もちろん、いませんね。そうなんです。自動車というとても便利なものを皆さんは日々使っていますが、それは、あなた方ではない別の誰かが自動車を発明してくれて、それを改良してくれて、エンジンを組んでくれて、それをコンピューターで制御できるようにしてくれたおかげなのです。別の誰かのおかげで、皆さんは日々の便利を享受してるんです。なんて幸せなことでしょう」

サラは、ここでひとつ間を置き、にっこりと笑ったが、今度は聴衆は笑わなかった。が、サラは気にせず先を続けた。

「たとえば、電話のことも考えてみましょう。皆さん、ビジターですから、ハムダルとは別のどこかに、故郷の星がありますね? その星との距離はどのくらいですか? 電波の速度は光と一緒ですから、皆さんの星の科学力で故郷の星と電話で話そうと思ったら、一言話して一言帰ってくるだけで、何年も何十年もかかってしまいますね? でも、現実は、この地上で話すのと同じように、普通に故郷のご両親やご親戚と会話ができる。それはなぜか。それは、あなたたちではない別の誰かが『量子もつれ』という現象を発見したからです。そして、また別の誰かが、その『量子もつれ』を通信システムに組み込む方法を発明したからです。そうした人たちが存在したおかげで、皆さんは、故郷の星と普通に電話が出来るのです。どうです。これって、とても強運で、幸せなことではないですか?」

サラは、ずっと柔和な表情で、そして優しい声で、聴衆に語っていた。だがメイは、強い違和感を感じ始めていた。初対面の時からそのフレンドリーさに感動し、メイにとって最大限の尊敬と親愛の情の対象であるサラ・ヴェリチェリ。そのサラ・ヴェリチェリと、今、壇上で、嘘くさい笑顔で、慇懃に恩着せがましい話をしているサラ・ヴェリチェリとが、メイには同一人物に思えなかった。聴衆も、サラの演説の意図が判らず、次第にざわつき始めていた。だが、サラは、そのざわつきを楽しんでいるようですらあった。彼女は話を続けた。

「さて。ハムダル星に暮らす全てのビジターの皆さん。皆さんがこの星にいるということは、皆さんご自身か、あるいは御先祖か、とにかく、あなた方に繋がる誰かが、私たちハムダル・ピュアの作った宇宙船に乗ったことがあるということです。現在のところ、私たちハムダル・ピュアは、この宇宙で唯一、ワープ航法によって光よりも速く時空を移動することを可能にした種です。これは大切なことなのでもう一度言いますね。ワープ航法を会得した種は、ハムダル・ピュアだけです。皆さんは、なぜワープが可能なのかを知らない。どうすればワープが出来るのかも知らない。ましてや、ワープ機能を搭載した宇宙船を作ることは絶対に出来ない」

「あんたたちが、教えないからな!」

最前列にいた大学生らしきグループの一人が、そう大声で野次を飛ばした。

「どんなに成績が優秀でも、ビジターは宇宙航法の専門科には絶対に進ませない! これが差別でなくてなんだって言うんだ!」

サラは、野次には全く動じなかった。そういう野次が飛ぶことを、最初から想定していたようにメイには見えた。

「発明をした者が特許を取り、その発明による恩恵を最も受けるのは当然のことではないですか? しかし、私たちハムダル・ピュアは、ワープ航法の恩恵を皆さんにも開放しました。皆さんの星に宇宙港を建設し、科学を知らない遅れた種の方でも、乗船チケットさえ購入すれば、光よりも速いスピードで宇宙を旅する機会を提供しました。だから、皆さんは、この星に来ることが出来た。これを強運と言わずして何と言うべきでしょう。幸せと言わずして何と言うべきでしょう。差別だと私たちを罵り、大した税金も納めていないのに選挙権を寄越せと大声で叫ぶ前に、まずは皆さん、ワープ航法を発明した私たちハムダル・ピュアと同じ星に暮らせているという幸せを、今一度振り返っていただきたく私は思います」

そこまで語ると、サラは壇上に用意されていた水差しに手を伸ばし、ゆっくりとコップに水を注ぎ、美味しそうに飲んだ。そこまで、呆気にとられたようにサラの演説を聞いていた聴衆は、この中断で我に返り、次々と、サラに罵詈雑言を叫ぶ人間が現れ始めた。緊張から弛緩して楽観へ。それから困惑へ。広場の雰囲気は次々と短時間でその様相を変え、今は憤怒の直前という印象をメイは受けた。

そんな騒然とした雰囲気に対して、サラは両手を大きく広げてみせた。

「OK。皆さんの言いたいことはわかります。でも、想像してみてください。たとえば今、大きな『災い』が、光の速度でこの星に迫っているとして……それに対処する方法が、唯一、光よりも速く逃げるしかないとしたら、あなたたちはどうしますか?」

大きな災い?

光の速度?

……それは、何の例え話?

サラは、閉じていた演説原稿を再び広げた。広げる時、その内側が、メイのいる場所からはチラリと見えた。

それは、演説原稿などでは無かった。

大きな手書きの文字で、ただ一行だけ、

「□□□□を出せ。サラ」

そう書かれていた。手書きの文字は、サラ自身の筆跡であるようにメイには見えた。肝心の□□□□の部分は見えなかった。一体、今、ここで何が起こっているのか。メイはますます混乱した。サラは自分自身に何を出せと言っているのか。そして、これから何を話すのか。二番目の疑問は、ほんの数秒後に答えが出た。

サラは、そのフェイクの演説原稿をじっと見つめ、それから顔を上げると、美しく赤く染まった夕焼けの空に向かって手を掲げた。

ハムダルの星にとっての太陽・恒星リサの左斜め下に、燦然と輝く大きな星が、ひとつ、出ていた。宵の明星として知られる恒星レクトポネ。サラは、そのレクトポネを手で指し示しながら、こう切り出した。

「恒星レクトポネが、超新星爆発を起こしました。今、西の空に輝いているのは13年前のレクトポネです。実際は、既にレクトポネはこの世に存在していません。私たちは、量子もつれシステムを搭載した無人探査機から、即座にその事実を知りました」

「……」

「現在、想像を絶する破壊力のガンマ線バーストが、ハムダル星に向かっています。到達は、今からちょうど一年後。その瞬間、この星のすべての生命は消滅します」

聴衆のざわつきが一度消え、次に大きなどよめきが起こった。先ほど野次を飛ばした、最前列の大学生らしきグループの男子が、再び大声を上げた。

「その話はおかしい! レクトポネは13光年も離れた場所の星だ! 光と同じ速度で進むガンマ・バーストなら、到着も13年後のはずだ! 年後に到着するなんてあり得ない!」

サラは、その大学生をスッと指さした。

「君、名前は?」

彼は、一瞬、それに答えることを躊躇った。実名を明かすことで、今後、何らか不都合なことが起きる可能性を考えたのだろう。だが、すぐに気を取り直し、彼は答えた。

「リク・ソンムです」

「リク・ソンム君。今のは、とても良い質問です」

サラはそう言うと、チラリとメイの方を見た。その一瞬、サラがとても寂しそうに微笑みを見せたのを、メイは確かに見た。サラはすぐにリクに向き直ると、彼に最大限の共感を見せつつ、こう言った。

「実は、私もちょうど二ヶ月前、まったく同じ質問をしたのです」