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第二章 4

暗闇の中で目が覚めた。闇。完全な。手を伸ばしてみても、手も、その手前にあるはずの自分の腕の輪郭すら見えない。どこかが痛む。頭だろうか。胸だろうか。その両方だろうか。めまいがしている気がするが、闇の中にいるので、本当に世界が回っているかどうかはわからない。

ここは、どこだ?

わからない。

自分が立っているのか、倒れているのかも、わからない。

腕を伸ばす。

指先には何も触れてこない。

が、肩甲骨が少し動いたことで、自分の背中に何かが当たっていることがわかる。身を小さくよじる。布が、硬いものの上で擦れる。体の正面に突き出した腕を、ゆっくり大きく、背後に回そうとしてみる。痛い。どこかが痛い。身体中が強張っている。それでも回す。と、掌が、冷んやりとした何かを触る。撫でてみる。石、だろうと思う。大きな、滑らかな、石。自分はどうやら、その大きな石の上に、仰向けに倒れているのだろうとわかる。体を捻る。捻った瞬間、肋骨のあたりに強い痛みが走り、

「うう……」

という呻き声が出た。

反響。

暗闇の中、自分の呻き声が延々と木霊する。

彼女はもう一度、同じことを考えた。

ここは、どこだ?

そして次に、こんなことを考えた。

私は、誰だ?

頭がきちんと回っていない。自分が目覚めているのか、それとも悪夢の中にいるのか、それすらよくわからない。

「あー」

今度は、意識して声を出した。

「あー。あー。あー。誰か……誰か、いる? いるなら、来て……」

先ほどより声が大きい分、木霊も大きかった。だが、その木霊たちに向かっていくら耳を澄ませても、自分以外の発する音は聞こえてこなかった。

ここは、どこだ?

痛みを覚悟で、もう一度、体を捻った。ゴロリと体が転がり、うつ伏せの態勢になった。両手で、体の下の石を触る。少しずつ、その触る範囲を広げ、自分の体の周囲に特に危険な物が無さそうなことを確認する。それから、今度は少しずつ、前に向かって這ってみた。体を100ミリメードほど引きずっては、慎重にその先を手で触る。大丈夫そうと判断したら、また体を100ミリメードほど引きずる。石の上には薄らと砂が溜まっている部分があり、それらが時々口に入った。錆びた鉄のような味がした。吐き出す。でも、舌の上などに砂が残る。それも取り除きたくて、掌で舌を擦ってみる。生暖かい自分の息が、掌に反射して鼻腔に届く。息は、臭かった。何の臭さだろう。考える。唐突に、誰かの声が脳裏に蘇った。

「これは、ラーズという木の根から作ったお酒なんです。ラーズは赤い木なんで、お酒もこんな風に赤いんです。でも、美味しいでしょう?」

そうか。この臭さは、酒の匂いだ。それも、かなり強く、変った酒だ。少しずつ思い出してきた。そもそも私は、お酒は強くないのだ。でも、勧められるお酒を飲まないのは、相手の歓迎を受け入れていないように思われる気がして、普段より頑張って飲んだのだ。そうだった。どんどん思い出してきた。

辺境の星。ネイティブたちの集落。宴会。円形の広場で。大勢の人がいた。満天の星空の下で、みんなでお酒を飲んだ。赤くて強いお酒。広場の中央には、星型に組んだ大きな櫓があって、その中で、薪が赤黒く爆ぜては美しい火の粉を散らしていた。大きな葉を編んで作られた皿と、木をくり抜いたコップ。皆が持ち寄った料理。どれもまだ熱々で、スープは湯気をあげていた。

「今日も、この星の隅々にまで、『あなた』の祝福をありがとうございます」

立ち上がり、そう唱えたのは、白いケープを被った女性だった。冷えた空気の中に、高い声がよく響いた。

「祝福をありがとうございます」

炎の周囲に座る人々は、大声で唱和した。

「明日もドーの『あなた』の祝福が、この星に住むすべての者と、そして、遥々遠き地から宇宙船に乗ってやって来た六人の客人たちにもありますように」

ケープを被った女性が、再び言った。そうだ。その時、私の隣にいた若い男が、小さな声で呟いた。

「客人って言うなら、五人じゃないかな。レイジは客人じゃないだろ」

レイジ。レイジ・ドー。私は彼を覚えている。私は、彼の生まれ育った星に来たのだ。

彼女は意識を取り戻し、次にレイジ・ドーを思い出した。それは、彼女の故郷・惑星ハムダルの大統領の元に、事件の知らせが届いたのと、ほぼ同じ時だった。

「宇宙船D-227には、大統領御令嬢のハク・ヴェリチェリ様、そして、ノア・クム補佐官の妹様のエリ・クム様がご搭乗でした。詳細はまだ判明しておりませんが、少なくともピュアふたりが殺害され、残りの方も拉致をされて生死不明とのことです」

宴は、とても楽しかった。

「宇宙船が山に激突した時は、肝を冷やしましたよ。でも、皆さん御無事で、こうして一緒に宴の輪に座ることができた。これもまた、ドーの『あなた』の思し召しですな。さ、記念に一献」

そう言って、年嵩の大男が、樽と柄杓を手にしてやってきた。その時、いつの間にか、私の隣りにはレイジが座っていて、柄杓を手にした私にこう言った。

「最初は、ひとり一杯、一気に飲みます。そして、飲んだ柄杓を左に左に回して行って、ぐるっと一周させるのがこの星の宴のしきたりなんです。でも、大丈夫。女性の場合は、ほんの少し口に含めば、あとは男が代理で飲んでも良いことになってます。なので、無理そうだったらぼくに柄杓を渡してください。代わりに飲みますから」

レイジは優しい。それも、押し付けがましくない優しさだ。私は彼の言葉が嬉しくて、逆に柄杓のお酒を一気に飲み干した。そして、誇らしげに器を高く掲げ、

「ドー!」

と、叫んだ。たくさんの歓声と拍手が来る。真っ赤なお酒は、思っていたより甘かった。柄杓を自分の左側に渡す。レイジだ。レイジは小声で私の耳元に、

「お酒と同じだけ、水も飲んだ方が良いですよ」

と言った。それから立ち上がり、水面張力でお酒がふるふると震えるほどたくさん汲むと、私が飲んだところと全く同じところに口を付け、一気に飲んだ。

「ドー!」

と、レイジが叫ぶ。

「おまえが飲むのは当たり前だ!」

という野次が飛び、その野次にみんなが笑った。レイジも笑っていた。

「これ、一杯しか飲んじゃいけないの?」

柄杓を左に回して座ったレイジに、そう質問をしてみる。彼は苦笑いをして、

「この『ドーの輪』は、何回も回ってくるんです。でも、大丈夫。2回目からはパスをしてもOKというのがルールです」

と言った。なるほど。でも、私は一度もパスをしなかった。楽しい宴だった。

「宇宙船D-227には、大統領御令嬢のハク・ヴェリチェリ様、そして、ノア・クム補佐官の妹様のエリ・クム様がご搭乗でした。詳細はまだ判明しておりませんが、少なくともピュアふたりが殺害され、残りの方も拉致をされて生死不明とのことです」

ずるずると、地面を這う。這っては、手を伸ばす。やがて、垂直の石の壁に突き当たる。行き止まりだろうか。相変わらず、何も見えない。自分自身の体の輪郭も見えない。ここが闇なのではなくて、自分の目が潰れているのだったらどうしようと、不安な気持ちがよぎる。右手で顔を触る。大丈夫だと思う。顔には痛みは無い。血が流れているような感触も無い。それから、その右手で今度は壁を撫で、石と石の間にある溝に指をかけた。左手でも壁を撫で、石と石の間にある溝に指をかけた。力を入れる。ズキリとまた肋骨のあたりが痛んだが、それでも力は緩めず、自分の体を少し起こした。右足。動く。動くようになってきた。膝を立て、足の裏を地面につける。押す。壁をずり上がるようにして、更に上体を起こしていく。

そういえば、みんなで結婚と家族の話をした。

ドーの星は、多夫多妻の社会だと知って、ハムダル人たちはみんな驚いていた。ハムダル人が驚く様子に、ドーの星の人たちは驚いていた。

「ハムダルでは、愛は素晴らしいものではないのですか?」

誰かが訊いた。

「ハムダルでも、愛は一番素晴らしいものだとみんな思っていますよ」

確か、機長がそう答えた。

「素晴らしいものは、ひとつだけより沢山有る方が良くないですか?」

別の誰かが訊いた。

「本当の愛はひとつだけ。だからこそ、愛は素晴らしいんじゃないですか?」

そう答えたのは私だ。ただ、ハムダルでは、そのひとつだけの愛が優先される訳ではない。ハムダルでは、愛の上にひとつ、より大事とされているものがある。

それは「スコア」だ。

スコア。遺伝子を解析し数値化したもの。

「我々はこの宇宙でもっとも優れた知性を有する種である。劣等な種族と交わることなくその優れた遺伝子を可能な限りピュアな形で未来の子孫に渡す。これ、すなわち、種の保存」

子供の頃から、これを何度復唱させられたことか。

だから、「スコア」を持つハムダル・ピュアは、ビジターと結婚することが出来ない。肉体関係を持つことも出来ない。キスすることすら出来ない。何らかの感染症が無症状のまま伝染り、知らない間にスコアを大きく下げてしまう可能性があるからだ。もっとわかりやすい例え話で言うならば、

「私は、レイジ・ドーと結婚出来ない。たとえ、両想いだったとしても」

勘違いをしないで欲しい。これは、あくまで、ハムダルの社会をわかりやすく説明するためのたとえ話だ。それも、笑えるたとえ話だ。なぜなら、私はレイジ・ドーを愛している訳じゃない。ちょっと気になる、というくらいだ。そして、レイジは他の女を愛している。これは、文字通りそのまま。他の女を愛しているのだ。

私の、このとてもわかりやすい説明は、しかし、ドーの星の人たちにはうまく理解されなかった。

「両想いなのに結ばれないことがあるなんて、まるで地獄じゃないか」

そう誰かが言った。

「ドーでは、愛する人とは必ず結ばれる」

「必ず?」

「そう必ず。ドーの『あなた』に歌を捧げれば、ドーの『あなた』が願いを叶える」

その時、私の隣りには、ハナ・ドーという若者がいた。彼は私に、

「ドーの星には、寂しさを歌った歌がひとつも無いんですよ。どんな人にも必ず愛してくれる人がいて、だから、ドーの星では孤独に苦しむ者はひとりもいない……そういうことになってます」

と言った。

「そういうことに、なってます?」

彼の言葉使いに、私は少し引っかかった。ハナは、

「まあ、ドーの人間だって、五千人くらいいますからね。ひとりもいない、はさすがに言い過ぎなんじゃないかなって思ってるだけです」

と言って、フッと微笑んだ。その微笑み方が、私にはなんだか寂しそうに見えた。

酔っぱらった金持ち男が、突然、柄杓を手に立ち上がった。

「俺はピュアだ。俺は、ハク・ヴェリチェリと結婚する資格がある!」

そう天に向かって叫ぶ。

「ここはハムダルじゃないんだよ。ここでは、皆さんとレイジ君がピュアで、俺たちがビジターだ。礼儀正しく飲みたまえ」

機長が彼に冷たく言った。

「うるさい。俺はピュアだ」

金持ち男は酒癖が悪かった。

「レイジはビジターで、パラン先生にはスコアが無い。おまえはピュアかもしれないが、金は俺の百分の一も持っていない。だから、ハク・ヴェリチェリと結婚するのは絶対に俺だ!」

そう金持ち男は吠えた。私は彼が嫌いだ。

レイジは、金持ち男の言葉など聞こえていない風で、黙って久しぶりの故郷の酒と料理を楽しんでいるようだった。私は、黙っているレイジを黙って見ていた。それから、黙っているレイジを黙って見ている他の何人かを黙って観察した。

たとえば、ハナ・ドー。彼の幼馴染み。

たとえば、ヤン・ドー。彼の妹。

そして、私と一緒にここまで来た、ハムダル・ピュアの女。

「俺はリッチだ! リッチ・カーオだ!」

悪酔いした金持ち男がまた叫んだ。

楽しい宴だった。いや、それは間違った記憶かもしれない。楽しそうにしていないと自分の中の何かが保てない。そういう時間だったかもしれない。

「俺は、ピュアだ!」

私の右隣りには、いつの間にか教授が座っていた。私は教授に頼む。あの下品で不愉快な男を黙らせるか、せめて大きく話題を変えるかして欲しいと。彼は私の頼みに快く頷くと、ラーズの酒を手に立ち上がった。そして、大きな声でこう言った。

「ドーの星の皆さん。私、実は前々から、いつかドーの星を訪れることが出来たら行ってみたいと願っていた場所があるのです。今から私は、ドーの『あなた』に歌を捧げます。なので皆さん。ぜひ明日、私の願いを叶えていただけませんか?」

上体を起こし、そこから更に、両足に力を入れて立ち上がる。壁は押してもびくともしない。そこから、両手を広げて左右を探る。壁以外に、手に触れるものは無い。迷った末、左に進んでみる。壁に背を付け、右手でもその感触を確かめつつ、左手で前方をゆっくりと払いながら、カニのような歩き方で進む。左足を300ミリメードほど進める。右足を、左足のすぐ横にまで引き寄せる。また、左足を300ミリメードほど進める。右足を、左足のすぐ横にまで引き寄せる。それからまた、左足を300ミリメードほど進める。

と、足元からパキリという音がした。

何かを踏んだようだ。鉱石とは異質の何かを踏んだようだ。

彼女は屈む。屈んで、自分が踏んだと思う場所を手で探る。それは、すぐに見つかった。手に取った瞬間、眩い閃光をそれは発した。

「ギャッ」

と悲鳴を上げて、それを放り投げる。本当はそれは閃光というほどの光量ではなかったのだが、ずっと闇の中にいた彼女の瞳には、それが何かの爆発のように思えたのだ。

カラカラとそれが転がる音。それが、「ギャッ」という彼女の悲鳴とともに、わんわんとあたりに木霊する。しばらく、彼女は両手で必死に顔を押さえていたが、やがて気を取り直し、ゆっくりと手を外して目を見開いた。

「あ……」

足元に転がっているのは、最新式の多機能ブレスレット。あの金持ち男が、昨夜の宴で、酔ってハナ・ドーにプレゼントしたものだ。その、幅20ミリメードほどのシンプルなブラックのブレスレットは、触り方とその強さで、時計にもなるし各種のセンサーにもなるし、ハムダル本星でならオンラインの端末にもなる。今は、踏んだショックで、ハンディ・ライト・モードになったらしい。その光で闇は消え、代わりに、彼女の進もうとしていた10メードほど先にある部屋が現れた。

「これよ! 思い出した! これのせいで私は!」

それは、絵、だった。

地下の洞窟。その行き止まりにある部屋のような場所に描かれた絵。

赤黒い岩盤に、白い顔料で。とてもシンプルな。

人がいて。人がいて。人がいて。

草木があり。広場があり。遠くには海らしきものがあり。

それらが、左右の壁に、奥の壁に、そして天井に、びっしりと描き込まれている。

そして、時折、説明文のように添えられている文字もある。

何と、彼女はその文字を知っていた。ここに書かれているものとそっくりの文字を、彼女は子供の頃から何度も見たことがあったからだ。ハムダルの首都リグラブ。その中心にある、聖なる広場の鉱石のレリーフ。そのレリーフに、これと同じ文字が彫られている。

古代ハムダル文字。

「ザ・クラッシュ」でそれ以前の歴史が失われ、今や意味も発音も分からなくなっている古代ハムダル文字だ。

しかし、なぜだろう。

ワープ航法を持たない、この未開の辺境の惑星に、なぜ、ハムダル本星と同じ文字があるのだろう。それにこの絵! この絵は「クラッシュの塔」から見たリグラブの街そのものではないか!

そう。あの時も、同じことを思って、気がつくと声を上げていた。

その時、私の前にはふたりの男がいた。私の声を聞き、彼らは振り返った。そして……そして……あの男が、私を撃った!

彼女は、自分の胸を押さえた。肋骨が痛む。肋骨だけでなく、胸全体が痛む。掌でもう一度、その痛む箇所を触る。内ポケットの中にお守りがあったことを思い出す。薄い麻布の袋の中で、彼女の誕生石でもあるパワー・ストーンが粉々に砕けていた。あの男の銃撃がこれに当たっていなかったら、自分は即死だったろうと彼女は思う。

彼は、殺すつもりだった。間違いなく。

私を、殺すつもりだった。間違いなく。

と、その時だった。

遠くから、人の足音がした。

誰かが来る。

誰だ。

あの男か?

私を殺し損ねたことに気がついて戻ってきたのか?

彼女は身を強張らせ、どこか隠れる場所はないかと探す。

だが、無い。

そんな場所は、どこにも無い。

そこは、のっぺりとした一本道の地下空間であり、彼女は今、その最奥の部屋にいるのだ。

逃げ場は無い。

足音がする。

確かに、人の足音がする。

彼女は大慌てで足元のブレスレットを踏み砕き、何とか闇を取り戻そうとした。

が、光は消えず、ただ、彼女のその壊そうと足掻く音だけが、ウオンウオンと地下の空間に激しく響き渡った。

足音はまだ聞こえる。

足音はまだ聞こえる。

それはじわじわと、しかし確実に、彼女のいる場所に近づいて来た。