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第二章 1

その日、大統領専用車が聖なる広場に入る分前に、ハムダル星のあらゆるモニターが、大統領演説のライブ中継映像に強制的に切り替わった。

ハムダル初の女性大統領であるサラ・ヴェリチェリが、ほぼ全星民が見つめるステージの上に、今まさに姿を現そうというその時。

そのサラをひと目直接見ようと、シード・グリンというビジターの娘が広場にやってきて、顔を隠した小太りの女にドスンとぶつかられたその時。

それを、ママと名乗る犯罪グループのリーダーが、まだ少女の面影のある狙撃手と共に、「クラッシュの塔」の上から見ていたその時。

ハムダルから513千メードほど上空を周回する第一衛星・ルーンでは、ヘンリ・クープという男が、ドーム・シティの集合住宅にある小さな自宅の小さな書斎で、サラの演説が始まるのを待っていた。

椅子に浅く腰を下ろし、両手を膝の上で組む。右手の震えを左手の握力で抑え、左手の震えは右手の握力で抑える。掌にじんわりと汗を感じる。と、書斎のドアがいきなり開き、ひとり息子のマオが顔を見せた。

「なんで別々に見るの? 父さんもリビングで一緒に見ようよ」

マオには生まれつき、下肢が無い。なので、ヘンリはこれまで、可能な限り高性能の人工脚を息子に与えることに収入の大半を投じてきた。ヘンリは、ピュアの中では収入の高い方ではなかったので、色やテクスチュアの質感など、人工脚の外見にまではあまりコストをかけられなかったが、神経節への接続キットは常に最高級のものにアップデートし続けてきた。なので、ドアから入ってくるマオの動き自体は、とても滑らかで美しかった。

「? 父さん、どうしたの?」

マオが、ヘンリの顔をまじまじと見る。

「父さん、泣いているの?」

まさか。泣いているわけは無い。泣いたところで、何かが変わるわけではない。だが、手を頬に持っていくと、確かにそこは濡れていた。それが、ヘンリの心を更に重くした。

「目に、ゴミでも入ったかな」

我ながら説得力のない嘘だ。そうヘンリは思った。

「今日だけじゃない。父さん、ここ最近、ずっと変だよ。仕事で、何かあったの?」

「何もないよ。目にゴミが入ったんだ」

「でも、本星からダイレクト・コールが来てからだよ。あれ以来、父さん、一度も笑ってない」

「そんなことはない。昨日の夜だって、一緒にコメディ映画を観たじゃないか」

「観ただけだよ。父さんは笑ってなかった。俺、ずっと父さんを観察してたんだ」

マオが心配そうにヘンリの側に来て、濡れている彼の頬に手を伸ばした。ヘンリはその手をギュッと掴んだ。マオ。優しい子だ。12年間、自分の決断を後悔したことは一度もなかった。ただの一度も。

と、モニターの中の群衆が大きくどよめいた。サラ・ヴェリチェリが広場に到着したらしい。

「マオ。おまえは母さんと一緒に見なさい。父さんは、この中継はひとりで見たいんだ」

「どうして?」

「理由は、今度話す」

「……」

マオは、とても聞き分けの良い子供だった。なので、それ以上ヘンリにあれこれ質問をせず、健常者とほぼ変わらない歩き方で、書斎の外に出ていった。その背中を見つめながら、ヘンリは、マオがまだ妻のチヒのお腹の中にいた12年前のあの日のことを思い返した。

当時、ヘンリ・クープは、衛星ルーンではなく、ハムダル本星に住む一般的なピュアの一人だった。ハムダル星防省星防局の宇宙管理部・中遠宙域管理課に勤務していた。ハムダル政府は、本星を中心に、光時間の近距離から、50光年近い遠距離まで、全方向に約1000機の無人探査機を配置していた。それらの探査機から来る定期信号は、リグラブから2.5時間ほど小型マグレブ・トラックで北に走ると現れる「グランド・スペース」と呼ばれる高原地帯に建てられたハムダル宇宙データ管理施設に届く。そこでデータは集計・解析・分類・加工・暗号化され、必要とする各署に転送される。ヘンリ・クープは、それらのデータ収集業務に必要な予算と雑務を管理する総務課長だった。

月に一度、ザ・ボックスで行われる宇宙管理部の部会に出席し、それ以外の日は、グランド・スペースのピュア用単身赴任施設で寝泊りし、週末は首都リグラブのピュア居住地に建てたマイ・ホームに戻って妻のチヒと過ごす。それが、ヘンリ・クープの日常だった。

奇しくも、12年前の今日。

データ課主任のライ・ガサが、ヘンリのデスクにやってきた。

「今、お時間少し良いですか?」

ヘンリは時計を見た。あと数分で昼休みという時だった。

「人手が足りないっていう話なら聞かないよ。先日のザ・ボックスの会議でも、研究員不足をビジターで賄うことは認めないと強く上から言われたばかりでね。おかけで、宇宙大学卒のピュアは各所で取り合いで、物凄い競争率なんだ」

そうヘンリが言うと、ライ・ガサは苦笑いをして、

「少ない人員でも回せるように知恵を絞ってこそピュアだろう、ということですね?」

と言った。

「そういうこと」

「でも、何事にも限界はありますよ? 私を含めてたった三人で1000機の探査機たちのご機嫌をとり続けるのはなかなか大変です」

そう言いながら、ライ・ガサは、ファイルをひとつ、ヘンリに差し出した。

「HQ2-3710からの通信が途絶えました」

「途絶えた?」

「はい。発信器だけの故障か、そもそも本体に何か大きなトラブルが起きてそれが発信器に作用したのか、現時点では判別不能です」

「ふむ」

「通信が出来ないので、遠隔操作で物理的な修理をしたりプログラムをアップデートすることが出来ません。新しいものを代替で飛ばすか、あるいは、修理のためのエンジニアをその宙域まで送り込むかしないと。早く、すべての探査機が、最新の量子もつれシステムを搭載してくれたら、ぼくたちの仕事もずいぶん楽になるのですが」

ライ・ガサは、オーバーに両手を広げて顔をわざとらしくしかめた。ヘンリは笑わなかった。

「ちなみに、宙域は?」

「ここから13光年です。恒星レクトポネを80年かけて周回しています。まだ投入されて3周目ってところなのですが」

「ふむ」

ヘンリは、1光年から15光年までの距離が担当だった。それより近く、あるいは遠くの探査機とそのデータは、それぞれ近接宙域管理課と極遠宇宙管理課が担当している。あと少し遠ければ、これもヘンリの仕事にならずに済んだのだが。そんなことを思いながら、ライ・ガサの持参したファイルを手に取る。恒星レクトポネ。脈動変光型の赤色巨星。超新星爆発までの推定予想時間はあと900年。大宇宙の時の流れで言えば900年はあっという間かもしれないが、ヘンリたちハムダル星人の寿命を物差しに考えれば、まだまだ遠い未来の小さなリスクだ。と、ヘンリの胸ポケットの携帯端末が通話リクエストを通知してきた。相手の名前を見て、ヘンリは不吉な予感めいたものを感じた。妻のチヒが通う、ピュア専門の産婦人科の医師だったのだ。

「この件は私が預かるよ。どう対処するにしても莫大な金がかかる。本省マターになるのは間違いないからね」

そう言って、ヘンリはライ・ガサを下がらせた。そして、ファイルを「未処理」のボックスに入れて、通話リクエストの承諾ボタンを押した。

すぐに、若い男の声が聞こえてきた。

「ヘンリ・クープ様。お仕事中にもかかわらず、コールの承認をありがとうございます。私、チヒ様を担当させていただいております産婦人科医のビリ・オットンと申します」

「いえいえ。私は今から昼休みなので、ちょうど良いタイミングでしたよ。それで、ご用件は?」

ヘンリは、嫌な予感を振り払おうと、努めて明るい声を出した。が、オットン医師の声は、硬く、やや沈み気味だった。

「ご多忙のところ恐縮なのですが、直接お目にかかってご説明したいことがございまして」

「説明?」

「はい。このたびの奥さまのご懐妊のことで」

「なるほど。妻の妊娠のことで、私に何か説明を?」

「はい。出来れば、まずはヘンリ様おひとりにご説明をしたいのです。そして、奥様にどうお知らせするかのご相談も、その時一緒にさせていただければと思っております」

「……」

やはり、悪い知らせだ。ヘンリとチヒはずっと子宝に恵まれなかった。が、お互いの生殖能力が大きく低下し始め、子供は諦めようかと話し始めた矢先に、奇跡のような妻の妊娠があった。だが、ヘンリはそれを、自分の親にも親戚にも友人たちにも話さなかった。出産適齢期を過ぎてからの妊娠には、多くのリスクがあることを知っていたからだ。

「説明を聞くのは、きっと早い方が良いのでしょうね?」

「そうですね。はい。早い方がよろしいかと」

「たとえば、今日の夕方でも?」

「はい、こちらは今日の夕方でも大丈夫です」

ヘンリ・クープは、午後の勤務を早退することにした。移動中に少しでも仕事はしようと「未処理」のボックスに入れていたファイルをブリーフ・ケースに放り込み、1時間に1本の間隔で運行しているリグラブとの定期運行トラックに乗り込んだ。が、その車中で仕事をする気にはついになれなかった。

チヒの通うオットン産婦人科は、リグラブの北側にあるピュア専用居住区の中にある。スタッフには「ホワイト・パス」と呼ばれる許可を得たビジターもいるが、医師は全員ピュア、そして患者もすべてピュアだった。チヒの母は、チヒをこの病院で産んだ。チヒの祖母も、チヒの母をこの病院で産んだ。なのでチヒも、妊娠したら出産はこの病院でと前から決めていた。ちなみに、ビリ・オットンは、ハムダル宇宙大学で医学博士とは別に遺伝生物学の博士号も取った秀才で、三年前、父のハリ・オットンから院長の座を引き継いだらしい。「とっても優秀な先生なのよ」と食事時に何度もチヒが話していたし、医師が優秀であることはヘンリにとっても喜ばしいことだった。そのうち、何か手土産でも持って自分から挨拶に行こうと思っていたのに、こんな形で予想外の対面となるとは。ザ・ボックスをそのまま縮小したような小さく白い立方体の病院に入る。受付で自分の名前を告げると、予約時間までにはまだ30分近く間があるにもかかわらず、ヘンリはそのままビリ・オットンの部屋に通された。

「ようこそ、おいでくださいました。どうぞ、そちらにお座りください」

勧められるまま、ヘンリは部屋の中央にある椅子に座る。ビリ・オットンはそれを見届けると、自分は立ったまま、

「まず最初に、とても残念なお知らせをさせてください」

と言った。ある程度の覚悟をしてきたへンリは、じっと次の言葉を待った。ビリ・オットンは、背後の白い壁を本の指でトントンと叩く。と、壁がふわりと発光し、チヒの名前と胎児の写真、そしていくつかの記号と数字の羅列が表示された。

「先日行った検査の結果、お腹のお子様に障害があることがわかりました」

「障害?」

「はい。それも重大な」

「……」

ヘンリは、胎児の写真を見つめる。が、まだそこに写っている我が子は小さ過ぎて、どこが正常でどこからがそうでないのか、彼には全くわからなかった。

「具体的には、どんな?」

なるべく平静を保つのだと自分に言い聞かせながら、ヘンリは訊いた。

「どういう形で障害が現れるかは、まだ、わかりません」

「わからない?」

「はい。障害は知能に現れるかもしれませんし、身体器官に現れるかもしれない。あるいは、一見正常に生まれるけれど、数年のうちに進行性のがんを発症するかもしれない」

「言われている意味がわかりません」

「遺伝子です」

「はい?」

「今、奥様のお腹にいるお子様は、遺伝子を正常にコピーする能力がとても低いのです」

「!」

「これから細胞分裂を繰り返し、人としての機能を作っていくなかで、ほぼ必ず、何らかの障害が発生して来るでしょう。途中で死産となる可能性もあります」

「待ってください。検査結果が間違っているという可能性は無いのですか?」

「これまでに、実は形を変えて3回検査を行いました。その3回ともが検査ミスという可能性は、限りなくゼロに近いでしょう」

ヘンリは思わず呻いた。ビリ・オットンは黙って、ヘンリが自力で気持ちを落ち着かせるのを待っていた。やがてヘンリは、

「出産して、それから治療する、という選択肢は無いのですか?」

と訊いてみた。ビリ・オットンは、その質問を予想していたらしい。トントンとまた壁を叩き、新たな文章を表示させた。それはこのまま出産した場合のリスクについて、一般人にもわかるように専門用語を使わずに書かれていた。それを最初からゆっくりとヘンリは読んだ。どれもこれも、ヘンリの心を打ちのめすことばかりが書かれていた。そして、最後の項が、その締め括りだった。そこには、あえて太字で、こう書かれていた。

無事にご出産をされたとしても、そのお子様には「スコア」が付与されません。「スコア」が無いということは、そのお子様にはピュアとしての権利が認められません。

「ちょっと待ってくれ! ピュアの両親から生まれた子供がピュアじゃないなんて、そんなバカな話があるか!」

思わずヘンリは声を荒げた。ビリ・オットンは、悲しげに頷いた。

「お気持ちは良くわかります。ただ、これが、この星の絶対方針なのです」

「俺はピュアだぞ! 妻もピュアだぞ! そのふたりの子供が、どうしてピュアじゃないなんてことになるんだ! ふざけるな!」

平静を保つという決意を忘れ、ヘンリは初対面の若い医師を大声で怒鳴りつけた。ビリ・オットンは動じなかった。

「ヘンリ様。ピュアの小学校で繰り返し習いましたよね? 何度となく暗唱しましたよね? 『我々はこの宇宙でもっとも優れた知性を有する種である。劣等な種族と交わることなくその優れた遺伝子を可能な限りピュアな形で未来の子孫に渡す。これ、すなわち、種の保存』」

「……」

「単純労働力の確保のために『ビジター』という名の移民を受け入れてはいますが、我々の社会の本来の目的は『種の保存』です。この銀河で唯一ワープによる宇宙航法を会得し、政治・経済・軍事などで最も優秀な種であるハムダル・ピュア。この星の社会制度はすべて、そのハムダル・ピュアの遺伝子をより良く保存することを目指して設計されているのです」

「……」

「実はですね、ヘンリ様。社会不安の蔓延を防ぐために情報の統制がされているだけで、実は、あなたとチヒ様のようなケースはたくさんあるのです。生物学的見地から見れば、近親交配は生命の力を弱めることがわかっていますからね」

「近親交配? 私とチヒは兄妹でもいとこでもありませんよ!」

「でも、お互いピュアです。ピュアはこの星に一万人しかいないんです。そして、少なくともこの二千年、私たちはこの一万人同士で結婚し、子供を作っている」

「!」

「種の保存というのは、実は最初から矛盾した目的なのです。種をピュアに保存しようとすればするほど、私たちの血はどんどん濃くなり、『近交退化』と言って先天性の異常が発生しやすくなります。ハムダルの医学は、ずっと、この近交退化との戦いの歴史なのです。遺伝子の優劣を『スコア』で可視化しているのもそのためです。そして、ヘンリ様のお子様は、このもっとも大事な『遺伝子を伝える』という能力に異常があるのです。なのでスコアはゼロです。そして、スコアがゼロということは、この星ではビジターとしか見なされないのです」

「……」

ヘンリは何も反論めいたことが言えなかった。この若く優秀な医者は、要は、子供を諦めろと言っている。出産をしたところで、生まれてくる子はハムダル・ピュアの種の保存には役に立たないことが決まっているからだ。

「……子供の名前も、もう決めていたのに」

肩を落としてヘンリは言った。

「妻がね、きっと男の子だって言うんだ。私にはわかる。お腹の中の子は、男の子だって」

「本当にお気の毒です。ただ、お子様は授かりものと言います。次のチャンスがあるかもしれません」

「妻の年齢は先生も知っているでしょう? 気休めは、やめてください!」

そう怒鳴ると、ヘンリは両手で顔を覆った。そんなヘンリに、ビリ・オットンはもう一言だけ言わなければならなかった。

「お子様を諦める場合は、処置は一日でも早い方が母体へのダメージが少なくて済みます。奥様には、ヘンリ様から話されますか? それとも、私がお話ししましょうか?」

気持ちを落ち着けるために、ヘンリはあえて、病院から家まで徒歩で帰宅することにした。ピュア居住区は、有害な紫外線や宇宙放射線を100%遮断する特殊なガラス・ドームの中を、最新鋭の空気清浄装置で何重にも濾過した100%クリーンな空気で満たしている。ここは巨大な無菌室であり、この中であれば、感染症に弱いとされるピュアたちでも、内服薬や各種シールド、携帯型イオン・バリアなどに頼らなくても、普通に戸外を歩くことが出来た。

道中、いくつもの記憶のかけらがランダムにヘンリの脳裏に現れては消えた。

例えば、ヘンリの父親が突然夕食を食べに家に来て、「このまま子供が出来なかった時、おまえはピュアとしてどうするつもりなんだ?」と、チヒが同じテーブルにいるにもかかわらず、ヘンリひとりに訊いてきたこと。

例えば、それよりもずっと前、子供時代、運動神経が悪くて落ち込んでいるヘンリに、「少しくらい駆けっこが遅いからってなんだと言うの。もしビジターに生まれてたらと考えてごらんなさい。ね? ピュアに生まれて来られただけで、とてもとても幸せな事でしょう?」と母親が慰めてくれたこと。

あるいは、チヒの妊娠が判明した日。彼女が家に帰るなり持っていた精神安定剤を全部ゴミ箱に投げ捨て、「もう要らないわ! だって私、これからお母さんになるのだもの!」と叫んで、ヘンリを強く抱きしめたこと。

そのチヒを、ヘンリもまた、強く強く抱きしめ返したこと。

あの日は幸せの絶頂だった。こんな思いをするくらいなら、そもそも最初から妊娠なんて奇跡が起きなければ良かったのに。

それからヘンリは、(それでも「産む」というのはどうだろう)と何度か自問自答した。どんな障害を持って生まれてくるのかはわからない。だが、チヒとふたりなら、たいていの困難は乗り越えられる気がする。それに、ハムダルの医学はこの宇宙で最高水準であり、しかもいまだ日進月歩の発展を続けている。今は治療不可能と言われている障害でも、ほんの数年後には状況が変わっている可能性はある。そうだ。可能性はあるのだ。奇跡は起きるかもしれないのだ。そんなことをぐるぐると思いながら、しかし最後には、ヘンリはビリ・オットンのあの通告を思い出すのだった。

無事にご出産をされたとしても、そのお子様には「スコア」が付与されません。「スコア」が無いということは、そのお子様にはピュアとしての権利が認められません。

(そんなバカな……)

ピュアとしての権利が認められないということは、この清潔で安全なピュア居住区に住めないということだ。学校だってそうだ。野蛮で不潔なビジターたちに混じってダウンタウンの学校に通うことになる。ピュアの両親を持つ障害児。ひどいいじめの対象となるだろう。教師だってビジターなのだ。マオを……チヒは、男の子が生まれたら名前を「マオ」にするのだと何度も笑顔で言っていた。ヘンリもマオを良い名前だと思っていた……そのマオを、ビジターの教師たちはきちんと守ってくれるだろうか。

(そんな人生が、幸せと言えるだろうか……)

歩いても、歩いても、考えは上手くまとまらなかった。まとまらないので、更にヘンリは歩いた。歩いて、歩いて、やがてヘンリはピュア居住区の西の端のゲート前まで来てしまった。我が家のある場所とは、全然違う方角だった。

ガラス越しに見える向こう側は、ビジターたちの街だ。空はただの空。大気はただの大気。紫外線も宇宙放射線もカットされず、雑菌たちは大気中を浮遊している。色違いというだけで、間取りもデザインもほぼ同じ格安の建て売り住宅。それらの家の前の小さな庭では、ブランコをこぐチリチリの黒髪の女の子や、芝生の上でじゃれ合う黄色や茶色の肌の子供たちが見えた。更にその向こうでは、上半身裸のまま、元気良く自転車に立ち乗りをしている子供。背中にびっしりと鱗のようなものが覆っている。あの鱗がある種は、鱗の力でとても寒さに強いらしい。そして、それら健康で楽しそうな多種多様な子供たちを、美しい夕焼けが柔らかく照らしている。

気がつくと、ヘンリはゲートの外に出ていた。

抗ウイルスの小さな丸薬をふた粒、口に放り込む。この道を、車で通過したことは何度もあるが、自分の足で歩くのは初めてだった。最初の十字路をなんとなく右に折れ、次の十字路ではなんとなく左に曲がった。と、曲がった先に露店の花屋があり、ダークブロンドの髪の青年が暇そうに店の前に座っていた。

「お花はどうですか? ミスター」

ヘンリを見かけて、青年は言いながら立ち上がった。長身で白い肌。アイス・ブルーの瞳に美しく高い鼻筋。外見はピュアに見えたが、ここはビジターたちの集落である。

(もしや、この青年にも何か障害があるのだろうか。そのせいで、スコアが無く、こんなところに落ちぶれているのだろうか……)

思わず、そんなことを考える。青年は、屈託のない笑顔で、

「愛する奥さんにたまにはお花のプレゼント。良いと思いますよ!」

と、花を売り込んで来る。

チヒは花が大好きだ。だが、ヘンリは結婚以来、チヒに花をプレゼントしたことは無い。新築で家を建てた時、たくさんの花が親戚や同僚たちから届いた。ハムダルで流通している花は、満開状態のまま数年は枯れないように遺伝子操作されているし、年に一度、専門の業者がその枯れない花を入れ替えていく。なので、ヘンリの家では常にたくさんの花が咲いていて、わざわざ自分で新たに買い足す必要は無かった。

じっと、花を見る。

花を見る。

花の中にもあるはずの命を見る。

「あれ? ミスター、もしかしてピュアの方ですか?」

青年は、ヘンリの肌も青年と同じくらい白いことにようやく気づいたようだった。

「そうだよ」

短く返事をする。「君もピュアかい?」という質問は怖くて出来なかった。

「へえ。珍しいですね」

「ピュアがここを歩いているのがかね?」

「そうじゃなくて、ピュアの男性なのに、花をじっと見つめたりするのが」

「……」

「うちのオーナーが、いつも言ってるんですよ。ピュアの人って、合理的とか効率的とかそういうことばかりが大好きで、花も音楽もなかなか愛してくれないって」

「それは間違った情報だよ。私も、私の妻も、花は大好きだ」

「へええ、そうですか。じゃ、ちょっと待っててもらえます?」

そう言うと、青年は露店の奥に一度引っ込み、やがて別の花のバケツを手に戻ってきた。

「こいつはうちのとっておきの花なんですよ。特別な花。花好きのミスターの家にも、きっとこいつは無いと思います」

「どう特別なんだね?」

「それは、買ってみてからのお楽しみです」

そう言って青年はウインクをした。少しキザな男のようだ。

(彼はどこに障害を持っているのだろう)

また同じことを考え、そしてすぐにその思考を振り払った。

ヘンリは、彼の差し出した「特別な花」を見つめた。それは、ピュアが記念日に贈答し合う花に比べると、一輪一輪が小さく地味だった。だが、白とレモンイエローの混じり合った花びらは可愛かったし、今日は手ぶらで家に帰るのが気が重くもあった。

ヘンリ・クープはその花を買うことにした。

平日に夫が突然帰宅したこと、しかもその夫がビジター街にある露店で花を買ってきたことに、チヒはとても驚いた。

「あなたが、こんなサプライズをしてくれるなんて!」

平日に夫が突然帰宅したことに、しかもその夫がビジターの露店で花を買ってきたことに、チヒはとても驚いた。

「あなたが、こんなサプライズをしてくれるなんて!」

チヒはヘンリを抱きしめ、いつもより少し長めにキスをし、それから花束を受け取った。

「とても可愛い花ね。私、とても気に入ったわ。寝室のライトの側に飾ろうかしら。それとも食卓の上が良いかしら」

そうチヒは少しはしゃいだ声で言った。

「そうそう。今日読んだ本に書いてあったんだけど、美しいお花は、お腹の子の情操教育にもなるんですって。私の目を通して、この子も今、きっとこの可愛い花たちを眺めているのよ」

そう言ってチヒは、愛おしそうにお腹をさすった。そんなチヒを見ながら、ヘンリは一生懸命微笑んだ。微笑みながら心の中でこう呟いた。

(無理だ。言えない。俺には言えない……)

チヒの受けるショックは、自分の何倍も大きいだろう。そうヘンリは思った。明日、自分はまたはるばるグランド・スペースまで出勤しなければならない。そうなると、チヒはこの家でひとりになる。チヒを、何日もひとりで、今回の知らせのショックと戦わせるのは忍びない。そうヘンリは思った。

「うん。このお花は食卓にするわ。あ、そうそう。実は今日、マタニティの教室にも初めて行ってみたんだけど」

話しを続けるチヒに笑顔で相槌を打ちながら、

(週末だ。週末まで待ってから打ち明けよう)

と、ヘンリは決心した。