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プロローグ2

星の誕生以来、生命の自然発生を一度も許さなかった極寒の氷雪惑星。

名前らしい名前は無く、ただ宇宙座標軸そのまま「731宙域815銀河域931288星域11944312555星」と呼ばれている。今、その「731宙域815銀河域931288星域11944312555星」は、たったひとりの老婆を閉じ込めるために、非公式かつ非合法な牢獄星として使われている。氷雪面から地下深くに埋め込まれた銀色の立方体の牢獄。その牢獄で、老婆の嗄れた声が、10年ぶりに低く響いた。

「アタシはね。つまらないことは綺麗さっぱり忘れることにしてるんだよ。今となっちゃ、私が覚えているのは三人の女のことだけだ。

ひとりは、アタシが殺そうとした女であり、

ひとりは、アタシを殺そうとした女であり、

ひとりは、その両方だった。

ひとりは、ピュアであり、

ひとりは、ビジターであり、

ひとりは、その両方だった。

三人とも、心に異なる正義を持っていて、そしてあの時、世界は運命をその三人の女の手に握られていた」

面会人の男は、じっと老婆を睨みつけた。

この星に辿り着くまでの、気が遠くなるほど長い旅。星を喪い、家族を喪い、多くの友人を喪い、それでも男は旅をしてきた。真実を知るために。そしてまだ間に合うのなら、遠い昔に交わしたとある「約束」を果たすために。その長い長い旅の最後につまらぬ嘘を吐かれてなるものか! そう男は心の中で呟いた。

「で、あんたが知りたい真実ってのは、どの女のことだい?」

そこまで言うと、初めて老婆は男の顔を見た。おかげで、男もようやく老婆の顔をきちんと見ることが出来た。老いさらばえたとはいえ、かつての威厳の名残はある。初めて彼女に会った時、男はまだ世間知らずのガキだった。目の前に立つだけで、緊張で足が震えた。

だが、今は違う。

「ママ。あなたは、俺をからかおうとしている」

男は努めて声を抑えてそう言った。

「からかう?」

「俺だって、多少のことは知っている。あなたが彼女を殺そうとするわけがないし、彼女があなたを殺そうとすることもない。ましてや、ふたりが殺し合うことなんて有り得ない」

「ほう」

「それに、その後の言葉もめちゃくちゃだ。あの時、世界の運命を握っていたのはピュアだけだ。超新星爆発によるガンマ線バーストでハムダル星があと1年で滅ぶとわかった時、選択肢ってやつを持っていたのはピュアだけだ。ビジターたちは、あの星にへばり付いて一年後の死を待つ以外、何も出来ることが無かった。方舟への乗船チケットだって、結局、一枚も配られなかった!」

「ほう。なら、どうしておまえは生きているんだい?」

「え?」

「無力なビジターだったおまえが、なぜ、あの『世界の終わり』から逃げ延びられたんだい?」

「……」

男は、その問いには答えられなかった。知らなかったからだ。なぜか、自分は生き延びた。理由はわからない。

男が黙り込んだのを見て、老婆は哀しそうに首を横に振りながら言った。

「やれやれ」

男は老婆の表情の変化に慄然とした。それは、誰かを「からかう」表情ではなかった。老婆の顔に浮かんでいたもの……それは、深い同情だった。

「ここまで訪ねてきたっていうのに、おまえはまだ、大事なことは何ひとつ知らないのか。見下げ果てたヤツだね」

「……」

「まあいい。アタシも今はヒマ人だ。ホトケ心であの時のこと、少しは話してやってもいい」

老婆はゆっくりと立ち上がった。足首に取り付けたられた鈍色の鎖が、軋んだ不協和音を響かせた。

「ただし、これだけは最初に言っておく。一度聞いてしまったらもう、元の自分には戻れないよ」