第二章 7
首都リグラブから南に3000キロメード。赤道を超え、リグラブとは四季が逆転した場所に、ベリアと呼ばれる広大な森林地帯がある。鳥類200種。植物5万種。そして昆虫類150万種以上が生息する生命の楽園。ただ、ハムダル・ピュアは未知の感染症への恐怖心が強く、この楽園に別荘を建てて住もうとか、大規模な開発をしようとする者はほぼいなかった。
そのベリアの北端。密林に入ってすぐの場所に、実は、ハムダル・ピュアの女性がひとりで住んでいた。名前は、ノア・クム。ハムダル星初の女性大統領、サラ・ヴェリチェリの筆頭補佐官という仕事をオファーされた時、彼女は条件をいくつか出した。
「『ザ・ボックス』には通勤したくない。フルタイムのリモート勤務を認めて欲しい」
「あなたには、最長でも五年しか仕えない」
「補佐官を辞めた後は、AI開発のための私の研究室を宇宙大学に作ると約束して欲しい。そして、私が申請する研究予算は常に満額認めると約束して欲しい」
鼻で嗤われ、そのままオファーの話は無しになるだろうとノアは思っていた。しかし、サラ・ヴェリチェリは、
「あら、その程度のことで良いの? なら決まりね」
と即断した。それで、ノア・クムは、史上最年少の大統領筆頭補佐官になり、着任ボーナスとして支払われた金で、ベリアの森に住居兼仕事場となる家を建てた。
決して、豪邸ではない。
あえて、見晴らしの悪い窪地を選び、そこに木造の小屋を建てた。質素なダイニング・キッチンと、さほど広くない部屋があと三つ。補佐官としての仕事をする部屋。AIの研究を続ける部屋。そして眠る部屋だ。設計士は何度か「これでは狭すぎませんか? 広いリビングや、シアター・ルーム、それに来客用の寝室なども必要ではないですか?」と確認したが、ノアはどれも却下した。プールも作らなかった。そもそも庭も作らなかった。玄関までの道を舗装もしなかった。家じゅうの窓は、木枠があるだけでガラスを嵌めなかった。家を囲うように立つ木々が程よく防風の役目を果たしてくれるし、コンクリートやアスファルトと違い、ベリアの黒々とした土の上での暮らしは、夏は涼しく冬は温かい。だから、ガラスが無くても困らない。それより、四方八方を何かで遮られる方が息苦しくて嫌だ、というのがノアの考えだった。設計士はこれにもだいぶ抵抗したが、「住むのは私だから」とノアは押し切った。
その日、森ではトゥリケラというそこにだけ生息する鳥が、長い嘴を木の幹に突き立てるカツンカツンという乾いた音を長閑に響かせていた。陽光は西に大きく傾き、大木の上の方の葉だけを赤く照らす。深く湿った緑色の苔。大蛇のように曲がりくねった剥き出しの木の根。その上を尻尾の丸い小動物が時折走る。ノア・クムは、机の上のモニターから目を逸らし、スピーカーの音も最小限に絞り、ガラスの無い窓から、ずっとそんな景色を眺めていた。
首都リグラブから届く、「聖なる広場」のライブ・ストーリーミング。ノアは、その動画に付き合うことに苦痛を感じていた。
「ハムダル星は、一年後に消滅します」
これから、そうサラが言うのは知っている。その後、少し間をあけ、あたかも(冗談なのにみんなは笑ってくれないの?)というジェスチャーを聴衆に向かってするのも知っている。それらの台本は、すべて、ノアが書いたからだ。なので当然、その先に何が起きるかも知っている。
(こんなものを見ていないで、森を散歩したいわ)
そんなことを思う。ふかふかの落ち葉を踏みしめたり、薬草を摘んだり、人工の濾過装置を通していない自然の湧水を小さな甕に汲んだり、あるいは手で掬って飲んだりしたかった。ガラスの無い窓から、外に手を出してみる。風を感じられるかと思って。と、赤黒い枯れ葉が一枚、ひらひらと空から落ちてきた。
「私はもう、死んでると思っているの?」
脳内で、妹の声がした。
「思ってない」
ノアは脳の中で答えた。
「でもお姉ちゃん、私のこと、真剣に探してないよね? 心配にならないの? 私、もう二ヶ月も行方不明なんだよ?」
脳内で、妹が語気を強めた。
「この星的には、あなたよりハク・ヴェリチェリの行方の方が問題だし、そもそも今はそれどころじゃないのよ」
脳内でノアは答えた。星がひとつ、滅ぶのだ。肉親がひとり行方不明だという事象より、どう考えてもそちらが喫緊の大問題だろう。が、妹は不服そうに頬を膨らまし、
「そんなこと言っちゃって。本当は、単に私のことが嫌いなだけでしょう?」
と言う。懐かしい。妹が生まれてからノアが家を出るまでの間に、延べ千回以上は言われた言葉だ。ノアは妹のことが嫌いではない。ノアは、エリ・クムのことが嫌いではない。が、好きでもない。無関心でもない。どういう感情なのか、言葉で説明するのは難しい。そもそもそんな会話は面倒だ。なので、エリから「嫌いなんでしょう?」と言われるたび、
「まさか。大好きよ。だから、あなたも私のことを大好きでいてね」
と答えながらその場を離れ、それで会話を打ち切ることにしていた。
ちょうど、二か月前の今日。惑星ドーに不時着した宇宙船D-227の乗組員が、現地住人に殺害または拉致されたという知らせが飛び込んできた。ハムダル星の寿命が、超新星爆発によるガンマ線バーストであと一年と二ヶ月と判明したのと同じ日だった。緊急事態を報せに大統領執務室に飛び込んで来た警備部の職員に、サラ・ヴェリチェリはこう言った。
「その件の捜査は現場に一任します。今後は私への報告は無用です」
「え? ほ、報告無用ですか? そうは仰いますが、ご家族のことですよ?」
「今はそれどころじゃないのよ。ノア、あなたもそれでいいわよね?」
「はい、もちろん」
職員は、驚いたように目を見開いたが、それ以上は何も言わずに部屋から退出した。以来、ノアは、妹の事件については、捜査報告書を読むことすらしていない。
「では、ちょっと失礼して……実は、今日は、カンニング・ペーパーを持ってきたの」
モニターの中のサラがそう言って、白いストゥの内ポケットから、演説の原稿らしきものを取り出した。ぼんやりしていて、彼女の最初の一言をノアは聞き流していたようだ。
「ふだんは、こんなもの無しで話すんだけど……だってほら。自分の言葉できちんと話さずに、役人に下書きさせた原稿をただ読むだけの政治家って格好悪いでしょう?」
サラの言葉に、聴衆が楽しそうに笑う。その下書きをしたのも私だよ、とノアは思う。
あの日から、妹のことは脳から追い出した。事件を知って半狂乱になった両親から「大統領補佐官の権力をすべて使ってエリの行方を探せ」というメッセージが何百回も来た。一言の返信もせず、無視した。サラ・ヴェリチェリと、密閉感が大嫌いな「ザ・ボックス」に閉じ籠り、ありとあらゆるシミュレーションを行い、今日の聖なる広場での演説原稿を書き上げた。シミュレーション中、警察組織の長官でもあるランバル・ランバートが、何度も彼女を励ましにやってきた。
「良い知らせが出来なくて申し訳ないが、警察も全力を尽くしてはいるんだ。希望は捨てないでくれよ」
そう言って、ランバルはいつも、ノアの肩に自分の手を置いた。
「かけがえのない家族のことだからな。すぐさまドーの星に向かえないこと、内心はさぞつらいことだろうね……」
別に、つらくはなかった。ただ「かけがえのない家族」という単語を使われるたび、ノアの思考にノイズが入った。それが、煩わしかった。かけがえのない家族。家族とはすなわち、かけがえのないもの。ゴフェルに一度、
「かけがえのない、を辞書で引いてみて」
と言ったことがある。
「『唯一無二で代替の効かない、大切なもの』と定義されています」
すぐにそう答えが返ってきた。それから、
「ノア・クムは、今、気が散っていますか?」
とゴフェルから逆に尋ねられた。その通りだ。ランバルに何か言われるたび、ノアは気が散った。迷惑だった。
一年と二ヶ月後に星が消滅する。
一年と二ヶ月以内に、打てるだけの手を打たなければならない。
そんな状況なのに、気が散っていると、脳は勝手に過去の思い出を再生したりする。
たとえば、あれは、6歳の時のこと。
ピュア・オンリーの小学校に入って、最初の学期末のテスト。ノアは全教科で満点を取った。学年で一位の成績だ。大きく花丸の書かれた答案用紙を母のメーリに見せよう。そう思って、学校から家まで走って帰った。母は、大喜びしてくれるだろう。そして、たくさんたくさん自分のことを褒めてくれるだろう。ハムダル・ピュアは、この宇宙でもっとも優れた知性を有する種であり、性格や運動能力より知力が真っ先に評価される。そう、学校でも家でもずっと教えられてきたのだ。
「お母さん! 私、満点だったよ! 全部満点で、学校で一番だったよ!」
が、母の反応は違った。
「え? あなたが?」
そう言って、とても戸惑った表情を見せた。嬉しい驚き、ではない。ただの驚き。そして、戸惑い。それから母は、ノアの髪を触った。撫でた、ではない。何かを確認するように触った。ノアの髪は、黒く錆びたようにくすんでいて艶が無く、ホワイト・ブロンドの母・メーリとも、バター・ブロンドの父・イワンとも似ていなかった。母はやがて、
「ノアはきっと、人の何倍も何倍も隠れて努力をしたのね。お母さん、そんなあなたが誇らしいわ」
と、気を取り直したように言った。
「何も、隠れてないよ? 私、先生が言ったことはいつも一度で覚えられるの」
ノアはそう言い返したが、母は首を横にゆっくりと振り、
「頑張ったわね。偉いわ」
と、ノアをハグした。ハグされたことは嬉しかったけれど、ノアの中には違和感が残った。
違和感の理由は、次の学期末に明らかになった。
ノアは再び、全教科で満点を取った。またしても、学年で一位の成績だ。家に帰ると、母が少し緊張した表情で待っていた。
「全部、満点だった」
そう言うと、母は今度はすぐにハグをしてくれた。
「頑張ったわね。偉いわ。今夜はディナーの後、ノアの大好きなケーキも食べましょう」
楽しい夜だった。アルプというピンク色の木の実を敷き詰めたタルト・ケーキを、ノアは二切れも食べた。ジュースもたくさん飲んだ。満腹で眠くなったので、いつもより早く、ふかふかのベッドで眠りについた。
目が覚めた時、時刻はまだ夜の0時を少し回った頃だった。ジュースを飲みすぎたせいで、ノアはトイレに行きたかった。ベッドから降り、廊下に出たら、階下で父と母の話し声が聞こえてきた。
「きっと、カンニングをしているんだわ」
母の声は、泣いているように聞こえた。
「バカなことを言うな。君はどうしてそんなことばかり言うんだ」
「だって、おかしいじゃない! 全教科、満点なのよ? 学年で一番なのよ? スコアが0点の子が、他のピュアの子より良い成績を取れるわけがないじゃない!」
「あの子のスコアは620点だ」
「そんなのデタラメよ」
「デタラメとか言うな」
「デタラメよ。お金で買ったスコアでしょう? いくら仕事でお世話になってるからって、ここまであの人の言いなりになる必要無かったのに!」
「メーリ! これは君のためでもあったんだぞ? 後継ぎを生まない女性がどういう立場になるか。俺は君を守りたかったんだ」
「だったら、どうして、ちゃんとしたブロンドの子にしてくれなかったの? あんな汚い髪の色、どうやって愛せば良いの?」
「メーリ……」
「みんな、何にも言わないけど、心の中では疑ってるわ。あの子は、イワンとメーリの子供じゃないんじゃないか。あの子は、ピュアじゃないんじゃないかって……」
「メーリ!」
それ以上は聞かずに部屋に戻った。その夜、トイレをどうしたのかは覚えていない。
それでも、クム家は、表向きはとても平和だった。
メーリは、直接は、ノアに優しかった。その次のテストでもノアが全教科で満点で、区の偉い人から表彰された時は、今までで一番嬉しそうな顔をしてくれた。父のイワンも優しかった。彼は多忙で、あまり一緒に食事をする機会はなかったが、同じテーブルについた時にはいつも、
「いろんな人から『ノアはとても頭が良い』と褒められるよ。おまえのおかげで、お父さんはいつも、鼻が高々だ」
と言ってくれた。
髪の色は変えられない。
だが、ずっと満点を取り、ずっと学年で一位を取り続けることは出来る。そうすれば、少しずつ母の愛も本物に変わっていく気がした。父もずっと、私が娘で良かったと思ってくれる気がした。母の言っていた「あの人」というのが誰かは、考えないようにしていた。余計なことを口にしたら、優しい父と母が突然いなくなってしまうのではないか……そんな恐怖心が、ずっとノアの中から消えなかった。
それから脳は、勝手に、二年後の雨の日のことを思い出す。
朝は晴れていたのに、お昼頃から天気が急変した。ノアは傘を持っていなかった。ずっと学校でメーリがビークルで迎えに来てくれるのを待っていた。が、来たのは叔母のサンセだった。
「ノアちゃん! メーリ姉さん、急に具合が悪くなって、今、病院なの。さ、ノアちゃんも一緒にお見舞いに行きましょう」
最近、母の食欲が落ちていることが気になってはいた。何度か「お母さん、しんどいの?」と訊いたこともある。が、母はいつも笑って否定していたので、自分の気にしすぎかと考えていた。緊張しながら、サンセと一緒に病院に行く。診察室の外には、父のイワンと、父の父のイゴー・クムと、父の母のアーニュ・クムと、母の父のババリー・ストンまで来ていた。そんなに大勢が集まるほど、母の具合は悪いのか? ノアは更に心配になってきた。と、その時だった。診察室の中から、「ハリ・オットン」という名札を付けた医師が出てきた。彼は、心配そうに集まったクム家の面々を見回し、厳かな声で言った。
「おめでとうございます。ご懐妊です」
「!」
次の瞬間、いつも不機嫌な祖父のイゴーが、両手を天に突き上げて歓喜の万歳をした。アーニュとサンセは抱き合い、イワンはババリーと力一杯握手をし、更に強く抱き合った。
「とはいえ、かなりの高齢出産になりますからね。油断は禁物ですよ。どうかご自愛を」
そう言って、産婦人科医は去っていった。
「イワン君、おめでとう」
「お兄さん、おめでとう」
「おめでとう。これで、クムの家のご先祖に申し訳が立つ」
そんなことを、皆が口々に父に言った。
「実を言うと、とっくに諦めていたんです。メーリはもう40ですからね」
そう言いながら、父は目に涙を浮かべていた。
「まさか、こんな奇跡が起きるなんて……」
そこまで口にした時、ようやく父は、そこにノアもいることに気がついた。ノアはただ、じっと父を見ていた。彼は両手をノアの方に広げると、
「ノア。ノアもお父さんを祝福しておくれ」
と言った。
「お父さんと、そしてお母さんを、祝福しておくれ」
ノアは言われた通り父に歩み寄ると、短い両腕で父を抱きしめた。
「お父さん、お母さん、おめでとう。私に、弟か妹が出来るのね。とっても嬉しいわ」
「その話はおかしい!」
モニターの向こうから、若い男の怒声が聞こえた。
「レクトポネは13光年も離れた場所の星だ! 光と同じ速度で進むガンマ・バーストなら、到着も13年後のはずだ! 1年後に到着するなんてあり得ない!」
ノアが家族のことを考えている間も、サラ・ヴェリチェリはずっと演説をしていた。
「君、名前は?」
そうサラが、怒声を発した若い男に訊く。
「リク・ソンムです」
「リク・ソンム君。今のは、とても良い質問です。実は、私もちょうど二ヶ月前、まったく同じ質問をしたのです」
「……」
「しかし、今、その説明をしている時間はありません。わずか一年後に、この星は滅ぶのです。ならば、私たちが今なすべきことは、過去に何があったかを詮索することではなく、これからの一年をどう使い、どうやってこの星を脱出するか、ということです」
群衆の中から、また別の怒声が飛んだ。
「何か隠してるんじゃないのか?」
「失われた12年は誰の責任なんだ?」
「何が起きたのかきちんと説明しろ!」
野次というのは、単独で飛ばすのは少し勇気がいる。複数になるとハードルが下がる。飛ばされた側の大統領が黙っているので、更に野次を言うハードルが下がる。最初は数人だったが、次第にその数は増え、広場の雰囲気は騒然となってきた。リク・ソンムの野次は偶然だが、その後の数人は、実はノアが手配をした「サクラ」だった。彼らは普段は「矛」として警察隊で働いている。そのサクラにつられて、大勢のビジターたちが気持ち良くサラに向かって野次を飛ばした。たっぷりとその野次を浴びてから、サラはゆっくり
「オーケイ」
と言った。
「オーケイ。では、なぜ貴重な12年が失われたのか、一言でお答えしましょう」
「……」
「単なるヒューマン・エラーです」
「……」
「星防局宇宙管理部に勤務していたひとりのハムダル・ピュアが、シグナル・レポートを誤って紛失しました。しかも、それがいかに重大なことか気づかず、彼は、記録を改竄してその紛失を無かったことにしました。その結果、この星が滅ぶという事実が、12年もの間放置されました」
本当のことが言えて清々した。そんな表情で、サラ・ヴェリチェリは言った。彼女の説明があまりにもオープンだったので、ビジター側は逆に言葉を失ったような雰囲気になった。サラは言葉を続けた。
「でもですね。考えようによっては、これは、皆さんにとってラッキーな出来事です」
「?」
「ハムダルにある宇宙船は、すべて、ハムダル・ピュアのものです。ハムダル・ピュアの技術と、ハムダル・ピュアのお金で作られた船しかこの世界には無いんです。しかも、ワープ航法に耐えられる宇宙船の数には限りがあります。単純計算で、この星の住人の1万人にひとりしか、宇宙船に乗れないことがわかっています。ちなみに、その数は、この星に住むハムダル・ピュアの総数とほぼ同じです。ならば、今回の非常事態、普通に考えたら、宇宙船に乗れるのはハムダル・ピュアだけ、ということになります。そうですよね?」
「……」
再び、広場は静寂に包まれた。先ほどまでとは違う種類の恐怖が、じわじわと聴衆の心に入り始めてきたからだ。
「しかし、私はこの星の大統領として考えました。13年という刻があるなら『皆様は皆様の自助努力で逃げてください』と私も申し上げたかもしれない。しかし、現実はたったの一年です。しかも、その原因は、とあるハムダル・ピュアのヒューマン・エラーです。にもかかわらず、皆さん全員を見捨ててハムダル・ピュアだけが逃げるのはあまりにも無慈悲ではないかと」
「……」
サラはそこで、一度、呼吸を置いた。手元の紙に一度目を落とし、小さく何かを呟き、それから改めて顔をあげた。
「今からお話しすること、それが今日の本題です」
と、机上のモニターとは別の通信回路が開いた。
「こっちの準備は万端だよ」
女の声が、耳元で響く。
「あとは、あんたのゴー・サインだけだ」
ノアは、モニターの中のサラ・ヴェリチェリを見つめる。それから、盾のゴフェルを。そして、もう一度、サラ・ヴェリチェリを。彼女は、ノアの書いた原稿を忠実に読んでいる。
「今、ハムダル星には108種のビジターが入星しています。皆さん、それぞれの種ごとに固まり、リトルタウンを作ったり互助会を作られたりしていること、私たちも把握しております」
「気が変わったんなら、こっちは中止でも良いんだよ? もちろん、ギャラは満額いただくけどね」
女が言った。女の声と一緒に、風の音が入る。塔の上は、ここと違って防風のための木々が無いからか。そんな、どうでも良いことを、ノアは一瞬考える。
「私たちは、皆、遺伝子を未来に運ぶ船です。『種の保存』は、すべての生命の、生きる目的そのものです。ですから、その108種の皆さまに、特別に2枚ずつ、宇宙船の乗船チケットを差し上げましょう」
広場が大きくどよめいた。
「ひとつの種につき、男がひとり。女がひとり。これならば、皆さんの種も絶えません。人選は、それぞれの種で、心ゆくまで話し合って決めてください。乗船チケットの受け渡し方法については、後日改めて発表いたします。以上です」
そう言ってサラ・ヴェリチェリは、軽く聴衆に頭を下げた。そして、軽やかな足取りで、大統領車に向かって戻り始めた。一瞬の後、群衆は暴徒と化した。
「ちょっと待て!」
「たったの2枚ってどういうことだ!」
「ふざけるな!」
「俺たちの命も救え!」
「おまえらだけ助かろうって言うのか!」
口々に叫びながら、サラのところに押し掛けようとする。待機していた「盾」たちが、電磁バリアを張る。そのバリアに触れると、200万ボルトのスタンガンを押し当てられたのと同等の威力がある。暴徒の先頭は失神して倒れたが、その後ろから更に後ろからと、倒れた人間を踏み越えるようにしてビジターたちが押し寄せる。
「ゴー」
ノアが呟く。
「ゴー」
その声は、クラッシュの塔の、ママ・ローズの掌にある小型のスピーカーで再生される。
少女が、引き金にかけていた人差し指を引く。
大統領サラ・ヴェリチェリは、胸から鮮血を吹き上げながら倒れた。「盾」の女がひとり、悲鳴を上げながらサラに駆け寄り、両手で必死に彼女の出血を止めようとする。それをママは、塔の上から高性能の双眼鏡で見た。
シード・グリンが、見知らぬ女から指を差された。
「私は見た! あいつが撃った!」
女はシードを指差しながら何度も叫んだ。その声を聞いて、警察隊がシードを目指して走ってきた。恐怖を感じて、何もしていないのにシードは逃げた。シードと一緒に大学生たちも逃げた。その様子を、広場にある防犯カメラが複数録画していた。カメラは、逃げるシードの上着のポケットが不自然に膨らんでいるところも克明に撮影した。
ママは、双眼鏡をたたんだ。そして傍らの少女を見た。
「おまえをぶち殺さずに済んで、アタシは嬉しいよ」
少女は何も言わなかった。
「アタシはこれからまた酒を飲む。おまえはどうする?」
「……」
「行くところ、あるのかい?」
「……」
「無いんだろ? なら、アタシの酒に付き合いな。ヤン・ドー」
ママは初めて、少女のことを名前で呼んだ。
「アタシのコレクションは素晴らしいぞ。おまえの故郷の酒も一本持ってる。ラーズという木の根から作った赤い酒。今日はそいつを、特別に開けようじゃ無いか」
そう言いながら、ママはポンポンと少女の頭を優しく叩いた。少女は何も言わなかった。それでも、ママが歩き出すと、少女も黙って後ろをついてきた。
(嘘くさい言葉をたくさん言われるより、ずっとマシだな)
そんなことをママは思った。
ノアは、モニター画面を主電源から切った。すべて、計画通りに行われた。窓の外を見る。日はまだ落ちていない。少しの時間なら、まだ森を散歩できそうだ。彼女は立ち上がり、いつもと同じ足取りで部屋から出て行った。