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第一章 2

時は、相対的なものである。5分という時間は男には短か過ぎたが、老婆にはそうではなかった。

忘れようとして、強引に記憶から消し去ったこと。

忘れずにいようとして、しかし、いつの間にか上手く思い出せなくなっていたこと。

それらの両方が、男が矢継ぎ早に質問を重ねるせいで、老婆の脳裏に鮮明に甦ってきた。

ハムダル。

既に喪われた星。

老婆は、ハムダルという星が嫌いではなかった。

ハムダルの首都リグラブの最後の春。彼女は昼間から、行きつけの居酒屋で、人生の最期の一杯になるかもしれない酒を飲んだ。それから百と八つの惑星文字で書かれた看板たちを眺めながら、北の外れにある『クラッシュの塔』まで歩いて行った。酔いを醒しつつ。

『クラッシュの塔』というのは、大昔に何かが激突して爆発し、四階から上の部分が全て吹き飛んでしまった塔の残骸のことだ。その激突の前は塔は100階建てだったとか、いや200階以上あったらしいなど言われていたが、本当のところは誰も知らなかった。リ・ボーン元年より前の出来事については、ハムダルの住人たちの大半が、ほぼ何も知らなかった。

老婆は、その塔に登るのが好きだった。いや、当時はもちろん老婆ではなかった。彼女は自分の本名を誰にも教えず、ただ「ママ」と名乗っていた。

塔に着く。床と柱はあるが、壁は半分以上は無い。中に入り、左の壁面と一体となっている階段を使って二階に上がる。首都リグラブの街の中心にある『聖なる広場』が見えてくる。だだっ広い円形の広場の真ん中には、石に彫られたレリーフがひとつ。それと大きなステージ。その日の夕方、政府のお偉いさんがそこで演説をすることになっていた。更に三階へ。街の向こうにバンドーの埠頭が見えてくる。先ほどまでママが飲んでいた目抜き通りを、塔と反対側の南に抜けると、そこがバンドーの埠頭だ。海沿いに延々と1000メードも続く長い埠頭で、夜になると真っ暗な海面に街の灯りがキラキラと反射してとても美しかった。

海。

彼女は、海が好きだった。

海のある星が好きだった。

ハムダルが滅んだ後、彼女は宇宙を長く旅したが、ハムダルのような美しい海のある星にはついに出会わなかった。岩石の塊か、あるいは高熱のガスがグルグルと回転している星ばかりだった。

ただ、残念なことに、バンドーの埠頭から見る海には一つだけ欠点があった。埠頭の正面の沖合いに小さな島があり、その島の面積いっぱいに、「ピュア」と名乗る白色人種しか入れない真四角のハコが建っていて、(ちなみにそのハコの色も白だった)、彼女にはそれが目障りで仕方なかった。そのハコを視界に入れないようにしないと、海が楽しめなかった。なぜなら、彼女にあれこれ指図をしてくる人間が、まさにそのハコの中にいたからである。

あの日もそういう日だった。

仕事だった。

16時に『クラッシュの塔』のてっぺんに行け」

それがハコの中から届いた、ママへの指示だった。それで彼女はあの日「クソッ」「クソッ」と汚い言葉を吐きながら、指定された時間にクラッシュの塔に登ったのだった。

最上階である四階へ。

少し涼んだ気持ちの良い風が吹いてきた。

空には、綺麗な夕焼けが始まっていた。

そして、塔の上には、小娘がひとり、立っていた。

手に、ライフルを持って。

「おい」

ママは、背後から小娘に声をかけた。彼女は、振り返ると同時に、ライフルをママの顔に向けた。

「ふん。誰に鉄砲向けてんだい、バカタレが」

ママは呆れたように鼻を鳴らした。

「あんたが、約束の人?」

小娘は、じっとママを見つめたまま言った。目を逸らさないところは悪くない。それに、声が上ずっていないところも。そんなことをママは思った。

「あんたが、約束の人?」

小娘はもう一度、同じ質問をした。ママはそれには答えず、

「ちょっとそいつを見せてみな」

と、左手を突き出して言った。

「え?」

「その手に持ってる鉄砲だよ。そいつがアタシとの目印でもあるんだろ? ちょっと見せてみな」

そう言いながら近づくと、小娘は素直にライフルをママに渡した。ママはそれを受け取ると、空いていた右手でいきなり小娘の頬を打った。

「!」

「バカか、おまえは! 一つしかない武器を他人に渡してどうやって戦うんだ、この間抜け! 緊張感を持て!」

「でも俺、あんたの指示に従えって!」

抗議する小娘の胸ぐらを掴んでグイッとその顔を自分の近くに引き寄せると、囁くようにママは言った。

「政治屋の言うことは信用するな。あいつらは息を吐くように嘘をつく」

「……」

それから、ママはしげしげと小娘のライフルを観察し、

「なんだい、これは。石器時代の武器かい? こんなのんびりした武器で、人が殺せるのかい?」

と質問をした。

「殺せます」

そう言いながら、小娘はママからライフルを取り返した。そして、

「ちゃんと、殺せます。一度、証明済みです」

と、やや小さな声で付け加えた。「証明済みです」と言った時、小娘の目に暗い何かが煌めいたようにママには感じた。どう証明をしたのだろう。誰を相手に証明をしたのだろう。ママは、小娘をじっと見た。だが、彼女はそれ以上は言葉を続けず、表情にも変化はなかった。と、ママの持っていた小型のトランシーバーが着信した。

「りんごが箱から出た」

ハスキーな女の声が短いメッセージを伝え、そのまますぐに切れた。ママは「ふむ」とひとり頷き、それから小娘に、

「良いだろう。ちゃんと殺せるって言うなら、そいつを信用して始めようか」

と言い、かつてはこの塔の壁の一部だったろう残骸の上に腰を下ろした。

「アタシはママ。ママ・ローズ。この作戦の指揮官だ。アタシに歯向かったり意見をしたらブチ殺す」

小娘は黙っていた。

「もうすぐ、あのでっかい広場のステージに標的が現れる。アタシが合図をしたら、おまえはそいつのここを一発で撃ち抜け」

ママは「ここ」という時に、自分の左胸、心臓の位置を真上からトントンと指で叩いた。小娘は黙っていた。

「あんたがきちんと仕事をすれば、アタシの家族もきちんと仕事をする。あんたが失敗したら、あんたをブチ殺すのがアタシの仕事になる。わかるな?」

小娘はまだ黙っていた。ただ、ママが彼女の目を深く覗き込むようにすると、小さく一度だけうなづいた。遠くの広場には、早くも大勢の人たちが、有名人をひと目見ようと集まっていた。あと数分で、大きな仕事が始まる。始めてしまったら、もう後戻りは出来ない。ママは空を見上げた。美しい夕焼けの空。そして、深い茜色の空の真ん中に、飛び抜けて明るい星がひとつ。

「あんな星が、諸悪の根元たぁ、面白いね」

ママは、その星を見つめながら言った。

「こっから見てる分には、ただの明るい普通の星なのに、実はあれ、もう爆発しちまってこの世には無いって言うんだからね」

言いながら、ママはまたチラリと小娘を見た。彼女が何をどれくらい知っているのか興味があったからだ。が、小娘には何の変化も見られなかった。ただ黙って、弾道がブレないよう補助の足を起こしてライフルを床に置き、照準器のセットをしている。

「おまえ。今から誰を撃つのか、知ってるのかい?」

そうママは訊いてみた。

「知ってる」

小娘は短く答えた。

「そいつが、この星で初めての女性の大統領だっていうのも、知ってるのかい?」

また訊いてみた。

「知ってる」

小娘は答えた。

「そいつが、誰の母親なのかも、知ってるのかい?」

また訊いてみた。小娘の動きが止まった。だが、それはほんの一瞬で、すぐに先ほどと同じ声のトーンで、

「知ってる」

と、小娘は短く返事をした。

オーケイ。

全部知ってる上での殺しなら、アタシがとやかく言うことはない。そうママは思った。

「そう言えば、まだ、名前を聞いてなかったね」

「……」

「おまえ、名前は?」

答えないかもしれないな、と思っていたが、予想に反して、彼女は素直に自分の名を名乗った。

そして、ライフルの傍らに横になり、細く傷だらけの指を引き金にかけた。