第三章 6
ハムダルの星の歴史上、最も多くの人間に目撃された殺人。
被害者は、大統領のサラ・ヴェリチェリ。
場所は、首都リグラブの中央に位置する聖なる広場。
ちょうど、演説を終えたサラが、怒声を上げる聴衆を無視してステージ台から降りようとしている時だった。サラと聴衆の間に警備のための電磁バリアが立ち上がり、我を忘れて詰め寄った聴衆たちが幾人もそれに触れて失神した瞬間でもあった。
突然サラが、ひゅっと息を呑んで立ち止まったように見えた。次の瞬間、彼女の胸から赤い血が噴き出し、身体がのけ反り、両足が床から大きく離れた。弧を描いて体が飛ぶ。背中から一度大きく、二度目は小さく、ステージの上でバウンドをした。
その時、メイ・ウォンは、サラと同じステージ上にいた。斜め後方。SPとしていつでも大統領の盾となって飛び出せるよう、ずっと3メードの距離を保っていた。しかし、遠距離からの狙撃には、彼女はまったくの役立たずだった。倒れるサラの姿に一瞬硬直し、二秒後、弾かれたように駆け出した。
サラ・ヴェリチェリが何者かに狙撃された時、シード・グリンは、ハムダル宇宙大学の学生たちと一緒に、群衆の最前列で彼女の演説を聞いていた。なぜそんなに前に居られたのかというと、イベント気分で前夜から大学生たちとこの聖なる広場で場所取りをしたからだった。
「ハムダル星は、一年後に消滅します」
衝撃の事実をサラは聴衆に告げた。
「今、ハムダル星には108種のビジターが入星しています。皆さん、それぞれの種ごとに固まり、リトルタウンを作ったり互助会を作られたりしていること、私たちも把握しております」
彼女は、そう、広場に集まったビジターたちに語りかけた。
「私たちは、皆、遺伝子を未来に運ぶね船です。『種の保存』は、すべての生命の、生きる目的そのものです。ですから、その108種の皆さまに、特別に2枚ずつ、宇宙船の乗船チケットを差し上げましょう」
彼女は恩着せがましいトーンでそう言った。2枚。たったの2枚。
「ひとつの種につき、男がひとり。女がひとり。これならば、皆さんの種も絶えません。人選は、それぞれの種で、心ゆくまで話し合って決めてください。乗船チケットの受け渡し方法については、後日改めて発表いたします。以上です」
そう言ってサラは軽く聴衆に頭を下げ、演説を切り上げようとした。
「ちょっと待て!」
「たったの2枚ってどういうことだ!」
「ふざけるな!」
「俺たちの命も救え!」
「おまえらだけ助かろうって言うのか!」
群衆は暴徒と化した。口々に悪口雑言を叫びながらサラのところに押し掛けようとした。だが、その当の目標が、銃で撃たれ胸から血を吹き出して倒れた。それで、広場は一瞬、水を打ったような静けさに包まれた。
その時だった。
「あいつだ!」
そう叫ぶ声が背後から聞こえた。振り向くと、見知らぬ女がシードを指差し睨んでいる。
「私は見た! あいつだ! あいつが大統領を撃った!」
シードと女の距離は、わずか5メードほどだった。膝まである長く黒いパーカーを着、フードで深く被っている。声は甲高いがクリアで、静寂の広場で実によく通った。
「え?」
あまりの意外な成り行きに、シードは次の言葉が出なかった。
「見て! ポケットが膨らんでしょ! あそこに銃が入っているのよ!」
黒いパーカーの女は言い捨てると、サッと群衆の中に身を翻した。
「ちょっと待って! 私は……」
が、抗議の言葉も弁明の時間もまったく無かった。消えた女の代わりに、広場の警備に当たっていた「矛と盾」の隊員たちが、シードに向かって突進してきた。
「貴様! そのポケットを見せろ!」
「矛」の隊員章を胸に付けた背の高い男が、シードの左腕をつかんで乱暴に引っ張り上げた。それを見たリク・ソンムが、男を引き剥がそうとしながら叫んだ。
「ちょっと待ってくださいよ! シードは何も」
リクは言いたいことを最後まで言えなかった。別の「矛」の男がリクを殴り飛ばしたからだ。音を立てて地面に倒れるリク。殴った男はそのままリクに馬乗りになり、右の拳を大きく振りかぶった。その瞬間、考えるより先にシードの身体は動いた。掴まれていない右肘を背の高い「矛」の男の鳩尾に叩き込み、そのまま回転して、呻いて身を屈めた男のこめかみ部分を同じ右肘で強打した。シードの思わぬ反撃に、他の「矛」たちがたじろぐ。その隙を逃さず、右の足刀蹴りをリクに馬乗りになっている男に浴びせる。胸のど真ん中に蹴りを喰らった男は5メード以上地面を転がった。
モネ・デミスが悲鳴を上げた。
そして、大学生の仲間の誰かが叫んだ。
「逃げろ! 今は逃げろ!」
ラット・オル・オルルか、ウ・ツワか、ガジュジュガマジューンズか。ハルキ・ぺザンでないことは確かだった。彼は、数日前から行方不明になっていたから。
遠くからも近くからも「矛」たちがシードひとりを目掛けて殺到してくる。イェン・ダナが、恋人であるリクを助け起こすのを視界の端で見た。シードは、大学生たちから離れる方向に走り出した。
「止まれ! 逃げれば撃つぞ!」
巨人型と呼ばれるオールン星からのビジターだろうか。身長が2メード50近い「矛」の男が叫んだ。他の「矛」たちも一斉にレーザー銃を抜く。
が、それは彼らのミスだった。
シードは止まらず、その代わり、近くにいた他の聴衆たちがパニック気味に一緒に逃げ始めた。レーザー銃の乱射に巻き込まれては堪らない。悲鳴を上げながら彼らが逃げたせいで、そのパニックは一万を超える広場の聴衆全体に加速度的に広がっていった。その混乱に紛れて、シードは走った。
「大統領!」
メイ・ウォンは、壇上で倒れている大統領に駆け寄った。「あいつだ!」と叫ぶ女の声が遠くに聞こえたが、メイは見もしなかった。犯人が誰かより、今はサラ自身だ。サラ・ヴェリチェリの命こそが大切だ。サラの身体の右脇に膝をつく。彼女はカッと目を見開き、何かを言おうと懸命に上下の唇を開こうとしていたが、それは弱々しく痙攣するばかりで、意味のある言葉を紡ぐことは出来なかった。胸からは迸る血流。白いストゥが見る見る赤く染まり、更にその下の床にも赤い円を広げ始めていた。
「大統領!」
メイは両手でサラの傷口を押さえた。彼女の心臓の鼓動に合わせて、生温かい血液がメイの掌を押し上げてくる。指の隙間から、容赦なく溢れる血。呼吸は浅く、速い。
「大統領!」
サラは、渾身の力で片腕を上げようとしていた。肘から先、わずか20度ほど持ち上げられた右手。メイはそれ掴むと、グイッと自分の首の後ろに回した。そして、自分の右腕をサラの腰の下に差し入れ、一気に彼女ごと立ち上がった。
(大至急、治療の出来る場所へ……)
襲撃者たちが第二射を準備している可能性を考え、聴衆方向に自分の背を向ける。そのまま走る。自分が撃たれるリスクは考えていなかった。ステージ近くに停めてある大統領車へ。上司のボフ・ライと同僚のヒチョ・ハントが、大統領車への道を作り、後部座席へのドアを開けて待っていた。速度を緩めず、ダイブするように後部座席の真ん中へ。直後にボフが乗り込みつつ、防爆防レーザー仕様のドアを閉める。ヒチョ・ハントはまだ、銃を手に襲撃者たちからの第二撃に備えている。反対側のドアからは、ゴフェル。彼女は通常は大統領補佐官のSPだが、緊急事態における応急処置のエキスパートでもあった。
「ギリ! 車を出せ!」
ボフ・ライが叫ぶ。が、車は動かない。運転手であるギリがいない。
何故?
が、理由を考えている余裕は無かった。メイは大統領が車内で執務する時に使う簡易デスクを土足で踏み越え、運転席に強引に移った。
「右上腕動脈及び橈骨動脈の拍動がまもなく消失します。サチュレーション、血圧、共に低下。凶器はレーザーではなく銃弾。貫通により、右鎖骨下動脈が断裂。失血性ショックにより47秒後に心臓が停止します」
冷静なゴフェルの声。彼女はどんな時でも取り乱すということが無い。メイは、渾身の力でアクセルを踏み込んだ。鈍重に見える大統領車が、1.5Gの加速をもって聖なる広場を飛び出した。通りに出る瞬間、街路樹の幹にわずかに触れた。右前方のセンサーが吹き飛び、街路樹の方は幹が破裂したかのような勢いで削られたが、メイは気にしなかった。
(ふ・ざ・け・る・な!)
身体中が、怒りで沸騰していた。自分の人生に光を当ててくれた恩人。その恩人の命があと47秒で消えて良いわけがない。