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第三章 3

目を覚ます。宇宙船内の居住区とは異なる広く丸みのある天井に一瞬戸惑った。それから、ここがレイジの生まれた星であると思い出し、ハク・ヴェリチェリは素早くベッドの上で起き上がった。隣りでは、エリ・クムがまだ静かに寝息を立てている。隙間風が流れているのか、ゲルの天井の真ん中から吊るされたランタンの灯が、獣の皮で作られた生成り色の壁に赤い炎の色をチラチラと揺らしている。ランタンの燃料はケートという家畜の脂で、燃やすと仄かに甘い匂いがした。その匂いのお陰か、あるいはダダルの羽毛入りの柔らかな寝具のお陰か、睡眠時間は短いはずなのに、とてもすっきりとした寝起きだった。

エリを起こさないよう、ベッドから静かに降りる。ゲルの入り口には水差しが置かれていた。ザラザラとした粗い素地の陶器だ。そこから、同じ土で焼かれた両の手のひら大のボウルに水を注ぐ。昨夜はいつものハクに比べてお酒を多く飲んだ。赤い酒の独特な酸っぱい香りがまだ体からする。ラーズの木の根から作る酒で、ドーの星の民は毎夜この酒を飲むのだとレイジは言っていた。

レイジ。

レイジ・ドー。

そして、レイジの妹。レイジの幼馴染み。レイジの母。その母の兄弟。たくさんの叔父たち。たくさんの笑い声。何度も回って来る酒の器。星型に組まれた櫓と、その中で爆ぜる強い炎。その炎は、レイジの笑顔に、美しい影を作っていた。

楽しい宴げだった。

外はまだ暗かったが、ハクは上着を羽織って外に出た。虹色のダダルの毛織物だ。

「谷間の朝は特に冷えますから」

そう言って、レイジが昨夜、村のユリという女性から借りてくれたのだった。

その時、外気は氷点下20度。しかし、風が凪いでいたので、寒さはあまり感じずに済んだ。深呼吸をして辺りを見回す。集落は、周りを岩山に囲まれたすり鉢の底のような場所にある。荒野には、四方へ伸びる砂利道と、牧場、そして少しばかりの整地された畑。東の岩山の一点が白く滲んでいる。あそこから、新しい一日が始まるのだ。ビルは無い。ネオンライトも無い。外灯も無い。車も走っていない。昨夜、宇宙船D-227が不時着したのはどのあたりだったろうか。この星に3台しかないという大型のバギーで、レイジと一緒に長い石の道を走った。ハムダル星の首都リグラブとは比べものにならないほど美しい星空。まるで濃紺の生地の上に大量の砂金を撒いたようだった。そして、その夜空に一際大きく浮かぶ双子の月。

「ちゃんとバーにつかまっていないと振り落とされますよ、ハクさん」

声がした。振り向くと、レイジが後ろの荷台に片手と片足だけでバギー最後部の左外側にくっつき、残りの半身はぶらぶらと脱力させていた。

「あなたこそ、調子に乗ってると落っこちるわよ」

ハクがそう言い返すと、レイジは口を開けて笑った。レイジの方から先に話しかけてきたのは久しぶりだ。ワープ航法を身につけたピュアのパイロットと、単なるビジターの船外作業員とでは、宇宙航空業界でのヒエラルキーに大きな差がある。レイジも最近はずっと、そのヒエラルキーを弁えた態度に終始していた。ふたりがまだただの大学生だった頃は、そんなことは微塵も無かったのに。

「小さな赤い星なんだ」

レイジと初めて会話をした日。ハムダル宇宙大学の教養学部キャンパス。その西館の中庭にあるベンチ。「あなたの故郷ってどんな星?」と訊ねたハクに、レイジは少しはにかみながら答えた。

「山も土もそこから生えている木も、とにかく全てが赤くてね。家も、山から切り出した岩を積んで建ててるから、壁も一面赤いんだ」

「へえ。美しそうな星ね」

「どうかなあ。赤いって言っても、ハクさんが時々着ている赤のブラウスみたいな、そんな鮮やかな赤じゃないんだよね。ちょっと煤けた赤って言うか。グレーの混じった赤って言うか」

「あら、私、落ち着いたそういう赤も好きよ。いつか行ってみたいわ、その星」

「そう?」

「星の名前は何て言うの?」

「ドー」

「ドー?」

「そう。ドー。ドーの『あなた』に守られた、小さくて赤くて、幸せな星」

 あれは、もう五年も前の思い出だ。ハク・ヴェリチェリとレイジ・ドーは、どちらもハムダル宇宙大学の二年生だった。レイジはいつも講堂の一番前の列の、左の端の席に座っていた。誰よりも真剣にノートを取り、わからないことがあると手を挙げて質問をした。ビジターの学生は遠慮がちな人間が多く、ピュアと同じように質問をする学生は珍しかった。家庭の事情で物理工学のクラスを欠席したその翌週、ハクは、先週の講義ノートを見せて欲しいとレイジ・ドーに頼んだ。それが、初めての彼との会話だった。

「俺、紙のノートだけど、良いの?」

そう言いながら、レイジはすぐにノートを手渡してくれた。タブレットでスキャンをする前に、まずは1ページずつ、彼の強めの筆圧を感じながらノートを読んだ。90分の講義で、彼は11ページもノートを取っていた。読んでいるうちに教授が来たので、その日はそのままハクもレイジの隣りで講義を受けた。講義はちょうど昼前の時間帯だったので、終了後、ノートのお礼にランチをご馳走させてくれないかとハクはレイジに言った。

「ありがとう。でも俺、弁当持参してるんだ。食費、節約したくて」

「じゃあせめて、飲み物くらい奢らせて。お弁当はいつもどこで食べてるの? 西館の中庭? OK。じゃあ私、売店で何か良さそうなの買って来るから、あなたは中庭のベンチを取っておいて」

コーヒーをふたつと、あと、自分が食べる分のランチボックスを買って中庭に行く。レイジは、二人掛けのベンチの左側に行儀良く座っていた。少し癖のある銀色の髪が、リグラブの強い陽射しを受けて輝いていた。ハムダル宇宙大学は、透明の紫外線カットフィルムで構内全域を包んでいるので、ピュアが庭で強い日差しを皮膚に受けても問題は無い。ハクはレイジの隣りに腰を降ろし、ハウブの冷たいお茶と、南半球のプランテーションから採れたホットの漆黒のカフィを並べた。

「お好きな方をどうぞ」

「ハクさん、先に選んでよ」

「なんで? ノートのお礼なのに。それから、同級生なのに『さん付け』で呼ばれるのも違和感あるんだけど」

「そう?」

「そう」

「でも、みんな、ハク『さん』て呼んでない? 同級生だけじゃなくて、教授たちだって」

「母親が大統領で、お祖父さんもその前の大統領で、だから何回『呼び捨てでどうぞ』って言ってもみんな聞いてくれないの。でも私としては、いつも違和感でいっぱいなの。私はただの大学生で、大統領じゃないんだから」

「そうなんだ」

「そうなんです」

「じゃあ、遠慮なく……こっちの冷たい方をもらうね。ハク」

「どうぞどうぞ。素敵なノートをありがとう。レイジ」

東の岩山の上に、恒星ドワが少しずつ顔を出し始めた。それが、ハク・ヴェリチェリにとって人生最後の朝日になるとは、その時、彼女は予想していなかった。

背後から、若々しく張りのある声で話しかけられた。

「おはようございます」

振り返ると、レイジ・ドーの妹が立っていた。

ヤン・ドー。

リッチ・カーオがこの星に持ち込んだ、古いライフル銃を、大事そうに両腕で抱えていた。ヤンは、ハクに向かって微笑むと、こう言葉を続けた。

「今日は、死ぬには良い日ですね」