第三章 2
「ゴー」
そうノアが呟いた2秒後、大統領サラ・ヴェリチェリは、胸から鮮血を吹き上げて倒れた。「盾」の女がひとり、悲鳴を上げながらサラに駆け寄り、両手で必死に彼女の出血を止めようとする。
「私は見た! あいつが撃った!」
誰かの叫び声。映像が別のカメラに切り替わる。見知らぬ女に指を差されたシード・グリンが、驚愕の表情を浮かべている。上着のポケットに不自然な膨らみ。あの膨らみはすぐに解析され、ポケットの中にあるのは拳銃だと科学捜査局は断定するだろう。
ノアは、モニター画面を主電源から切った。すべて、計画通りに行われた。窓の外を見る。日はまだ落ちていない。少しの時間なら、まだべリアの森を散歩できそうだ。彼女は立ち上がり、いつもと同じ足取りで部屋から出た。
しっとりとした落ち葉の小径。頭上で折り重なる梢。その隙間を抜けた陽の光が、森の中に茜色の縞模様を作っている。ノアは剥き出しの木の根を避け、苔むす岩に時々手を突きながら歩く。10分ほど森の中を進むと、ノアが五人集まっても抱えられないほどの大木が現れる。大木の根元近くには淡い紫の小さな花たちが群生している。ノアは、大木の根の大きなコブに座り、その小さな紫の花たちを愛でるのが好きだった。
(それも、今日で最後か……)
一輪、摘んでいこうか。そう考えたが、すぐにやめた。深く息を吸う。樹皮と湿った枯葉の匂い。この匂いをきちんと覚えておこうと思う。
と、左耳の後ろに微かな温度上昇があり、続いて
「ノア様」
と骨導音声がした。ノアのSPのゴフェルの声だった。
「ニュースとして流す編集映像です。チェックをお願いします」
ノアの目の前にふわりとホログラムが現れる。ベリアの森の景色が背後にうっすらと透けているが、映像の簡易チェックに支障は無かった。
一万を超えるビジターたちの前で演説を始めるサラ・ヴェリチェリ。
狙撃され、胸から赤い血が噴き出すサラ・ヴェリチェリ。
「私は見た! あいつが撃った!」
より大きくクリアに修正された音声。
そしてシード・グリン。不自然に膨らんだ上着のポケットのアップ。彼女に駆け寄ろうとする警察隊。シード・グリンが逃げる。混乱の始まり。サラはまだ倒れている。SPの女が何かを必死に叫んでいる。
「サラ・ヴェリチェリの死亡確認は?」
「まだですが、時間の問題かと」
「そう。確認取れ次第また連絡して。そして、この映像はすぐにすべての配信チャネルで流して」
「承知しました。あと、臨時の閣僚会議は今から1時間12分後に決まりました。ご参加よろしくお願いします」
ゴフェルはそれだけ伝えると回線を閉じた。1時間と12分後。逆算すると、あと5分くらいは花を愛でる時間はあったが、気持ちがもう戻らなかった。ノアは足早に、自分の家のすぐ近くに作ったスカイ・ポートに向かった。直径5メードの円形のポートの真ん中に、定員2名の小さな正12面体の小型大陸間移動トラックが駐機している。トラックは近づくノアを自動で認識し、正三角形のひとつを格納して搭乗席への通路を開いた。
「ザ・ボックス」
ノアが目的地を発音する。ノアの体重をシートが感知し、磁力で彼女を吸着する。そして搭乗者に強いGがかからないよう、シートが少し浮かぶ。次の瞬間、機体は高度千メードまで一気に上昇した。ノアは、胸の内ポケットから一枚の紙を取り出し広げた。八等分に折り目の付いた紙。そこにはサラ・ヴェリチェリによる手書きの文字が記されていた。
「生体反応検知。一名、時速4.2kmでこの部屋に近づいています」
あの日ノアは、ザ・ボックス13階にある筆頭補佐官の執務室にいた。就任以来、ノアは仕事の大半をベリアの森の自宅で行っていたが、この時は「恒星レクトポネの超新星爆発」という超弩級の非常事態であったため、ノアも1ヶ月近くザ・ボックスに籠もり、種の保存のための具体的なプロジェクト推進の仕事に集中していた。
「虹彩と骨格を確認。来訪者はサラ・ヴェリチェリです」
ゴフェルがそう言葉を続ける。ノアはチェック中だった「種の保存のための優先搭乗者リスト」から顔を上げ、
「大統領なら、ひとりきりということは無いでしょう」
と、返事をした。
「生体反応は一名。虹彩と骨格を確認。来訪者はサラ・ヴェリチェリです」
ゴフェルは同じ言葉を繰り返した。すぐにドアがノックされ、ノアの返事を待たずに開かれた。現れたのは、ゴフェルの言う通り、大統領のサラ・ヴェリチェリだった。
「どうされたんですか? こんな時間に護衛も付けずに」
「あなたにちょっとしたお願いがあったのでね」
「お願い、ですか?」
「そうなの。それも、実は私的なお願いなの」
「私的な?」
今まで、私的な何かをサラから頼まれたことは無かった。サラは、ノアの怪訝な表情を楽しそうに見ながら、一枚の紙をノアのデスクに置いた。手に取る。久しぶりの紙の感触。そこには、ひとりの少女のプロフィールが手書きの文字で記されていた。ノアは、サラがこの情報をデータとしては残したくないのだと理解した。
「シード・グリン。17歳。この子、ビジターですか?」
「そうなの。ビジターなの。でも、何も聞かずにこの子を搭乗者リストに載せて欲しいの。あなたが今作っている『ノア1号』の搭乗者リストに」
「しかし、『ノア1号』は『種の保存』のための船でして」
抗議しようとするノアの口に、サラは人差し指をそっと当てた。
「だから、『何も聞かずに』」
「……」
「私は、この星のためにとっても頑張った。ひとつくらい個人的なワガママを言っても良いと思うの。あ、そういう意味では、あなたも何かひとつ、ワガママを言って良いわよ? 最後にもう一度ベリアの森に帰りたいとか。あるいは、搭乗者リストにゴフェルの名前を加えたいとか」
「……」
ゴフェルの名は、元々搭乗者リストに入れるつもりでいた。が、それは私的な感情からではなく、彼女が『ノア1号』の航行に必要な人材と判断していたからだった。チラリとゴフェルを見る。ゴフェルには、何の感情の変化も見て取れなかった。
「じゃ、よろしくね」
そう言って、サラ・ヴェリチェリはドアに向かって歩き出した。
「私的なワガママ、ということでしたら、ビジターの娘よりも、実の娘であるハク・ヴェリチェリ様のために席を確保しておく方が良くはありませんか?」
ノアは、そうサラの背中に声をかけた。
「ハク・ヴェリチェリ様は、現存するピュアの中で、最も高いスコアをお持ちです」
「でももう2ヶ月も行方不明なのよ?」
「しかし」
「じゃあ、あなた。リストにエリ・クムの名前も入れるつもり?」
「は?」
「あなたの妹のエリ・クムもピュアでしょう? スコアもまあまあ高かったはずよ?」
「エリ・クムと同レベルのスコアのピュアは他に何人もいます。2ヶ月も行方がわからない以上、リストから彼女を外すのは当然のことと思います。しかしハク様は違います。彼女は現存するピュアの中で最も高いスコアをお持ちであり、ハムダル星人の種の保存の象徴とも言うべきお方です。ビジターの娘を乗せるくらいなら、ギリギリまでシートを空けてハク様をお待ちする価値はあると思います」
ノアの言葉に、サラはしばらく沈黙した。それから長くゆっくりと息を吐いた。
「ノア筆頭補佐官。今回のこと、『お願い』ではなく『命令』という形にも出来るのよ?」
サラの口調から、おどけた雰囲気が消えた。
「でも私は、あなたとの友情を信じたいの。私たち、年は離れているけれど友達よね? だから、何も聞かずに、お願いします」
あの日、そこまで念を押して、サラ・ヴェリチェリは立ち去った。以来、ノアはずっと、サラから渡された紙を胸の内ポケットに入れたままにしている。
なぜ、シード・グリンなのか。
なぜ、血の繋がりの無いビジターの娘なのか。
なぜ、ハク・ヴェリチェリではないのか。
「ザ・ボックス到着まであと30分です」
トラックの自動操縦システムがノアに告げる。
「私たち、年は離れているけれど友達よね?」
サラの声が、何度も脳裏に甦る。
申し訳ないが、友達と思ったことは一度も無かった。