60日前。それは、サラ・ヴェリチェリの人生で、おそらくは下から二番目にあたる酷い一日だった。昼食を終えてから、夕方に予定されていたハムダル経済財政会議までの間。サラは溜まり気味の決済事項をこの時間で片付けようと、ひとり、執務室に籠もっていた。と、強目なノックの音が三つ。そしてサラからの「どうぞ」の声より先にドアは開き、女性がふたり入ってきた。サラは、自分の端末画面を切り替え、カレンダーに目をやった。
「すみません。アポは入れずに来てしまいました」
先に入ってきた女性が、そう言って頭を下げる。そして、まったくすまなそうな表情は見せずに、執務室の奥にある応接スペースのソファに腰をかけた。サラは、自分の仕事を中断し、その女性の向かい側のソファに移動した。
「直接会うのは久しぶりね。ノア」
「そうですか? 頻繁にお会いしていると思ってましたが」
ノアと呼ばれた女性は答える。
「先々月もお会いしましたし、先月は二度もお会いしています」
サラは、思わず苦笑いをした。
「あなたは大統領の筆頭補佐官なのよ? 普通、補佐官というものは、毎日毎日大統領と一緒にいるものよ?」
そう言いたい気持ちはあったが、口には出さなかった。この女性は、サラが自らスカウトしたのだ。毎日、ザ・ボックスに出勤しなくても良いのなら。それが、彼女からの条件だった。サラはそれを呑み、まだ若いこの女性を自分の筆頭補佐官に抜擢した。ノア・クム。ピュア。ハムダル宇宙大学を主席で卒業。学生時代の専攻は人工知能研究。背は低く肌は色白だが、よく見るとうっすらとした灰色のシミが、左の目の横、頬骨、あと鎖骨の上あたりにある。髪は金色だが、他のピュアの金髪のような輝きが足りず、錆びてくすんだような色をしている。角膜が薄くて視力矯正の手術が出来ないため、眼鏡をかけている。彼女を抜擢した時、同じピュアの男性たちから幾度となく「スタンド・プレイ」と陰口を叩かれた。そして
「どうせやるなら、もっと美しい女にすれば良いのに。あの見た目じゃ効果も半減だよな」
と言われたものだった。サラは、それらの言葉をすべて無視した。ノア・クムの頭脳こそ、ピュア13万人の中で最も優れた頭脳だと確信していたからだった。
「で、突然の訪問の理由は何? 外出嫌いのあなたがアポも取らずにここに来るなんて、どんな非常事態が起きたのかしら」
少し嫌味っぽく微笑みながら、サラはノアに尋ねた。
「オンラインですと、盗聴の危険性をゼロには出来ないので」
表情を変えずにノアが答える。
「盗聴?」
「はい。私と大統領のホットラインでその可能性は低いと思いますが、それでもゼロではありませんからね」
「あら。それだったら、この部屋だって同じことじゃない?」
「いえ。ここに入ってからずっと、ゴフェルがこの部屋をスキャンしています。どんなに微弱な電波でも、ゴフェルの目は誤魔化せません。大丈夫です。この部屋は、少なくとも今は、盗聴も盗撮もされていません」
ゴフェルというのは、ノアに続いて入ってきた長身の女性で、彼女のSPだ。真っ黒な防弾防刃のナノマテリアル生地で作られた「盾」の特別制服を着込んでいる。ゴフェルがそれ以外の服を着ているところをサラは見たことがなかった。今は、入り口すぐの壁際に黙って立っている。
「なるほど。そう言われると、ますます訊くのが怖くなっちゃったけれど、でも、聞かないわけにはいかなそうね。何があったの?」
覚悟を決めてサラは訊いた。
「大統領。恒星レクトポネが爆発したようです」
「え?」
「複数の『ドット』からの信号が消失しています。超新星爆発によるガンマ線バーストが原因であると私は思います」
「あら」
子供が大切な皿を落として割った、くらいのテンションで、サラは言った。かつてないほどの非常事態であることは瞬時に理解した。だからこそ、ここで狼狽えてはいけない。それで出てきた言葉が「あら」だった。ノアは、サラが思考を整理するまで待つつもりのようだった。
「確か、観測所からのレポートでは、超新星爆発までには、早くてもあと千年から三千年くらいはあるだろうって」
言ってから自分で、すぐにこう付け足した。
「でも、宇宙の時間スケールを考えたら、千年単位なんて誤差の範囲よね。あら、本当に困ったわ。レクトポネの対策予算を来年こそはきちんと計上しようと根回しをしていたところだったのに」
「その根回しの話、去年もされてましたよ。あと、一昨年も」
「仕方がないでしょう。お年寄りたちは、みんな、自分のお金は自分のために使いたいのよ。そして、大きな問題であればあるほど、ひ孫のひ孫のそのまたひ孫の更にその先の子孫に押し付けたいって人たちばかりなのよ」
「残念ですが、私たちの子孫に問題解決を先送りするのは不可能になりました」
それから、ノアは、少しだけ声を低くした。
「正確には、とっくに先送りは不可能になっていたのです。私たちが知らなかっただけで」
「とっくに?」
「はい。とっくに。76年と10ヶ月前に」
「76年前?」
「はい」
「76年と10ヶ月前にレクトポネは爆発した?」
「はい」
「なのに、私たちは今まで知らなかった?」
「はい」
その言葉の意味を理解するのに、サラは少しだけ時間がかかった。その間、ノアは黙って待っていた。なぜ知らなかったのか。が、今はそれより先に確認しなければならぬことがある。
「レクトポネは、ハムダルから80光年の距離よね? ということは、超新星爆発によるガンマ線バーストは、あと3年とちょっとでハムダルに到達するわけね?」
「はい。正確には、レクトポネはハムダルから80光年プラス2光月離れていましたから、3年と4ヶ月後に到着します」
「もう、過去形なのね」
「はい。既にレクトポネは存在しておりませんので」
「ちなみに、超新星爆発によるガンマ線バーストが到達すると、私たちの星はどうなるのかしら」
ノアは顔色一つ変えずに答えた。
「死にます」
「……」
「ピュアも、ビジターも、全員死にます。すべて死滅し、今後数万年は新たな命の生まれぬ星となるでしょう」
「あら、まあ」
「……」
「シェルターなどで、そのガンマ線バーストをやり過ごすことは出来ないのかしら」
「その一瞬はやり過ごしたとしても、星全体が死の星となるわけですから、即死と病死の違いくらいしかありませんね。あるいは餓死か」
淡々と事実のみをノアは答える。
「あら、そう」
サラは本当に困ったと言うふうに右手を自分の頬に当てた。
「ちなみに……」
ノアが情報を補足する。
「レクトポネとハムダルの直線上3光年の位置にガルド星があります。そこから数光時間離れた『ドット』の信号は既に複数消失しました」
そこまで言ってから、ノアは大統領室の時計をチラリと見た。
「あと1時間と55分後、ガンマ線バーストはガルド星本体を直撃します。ハムダル星がどのようになるのか、私たちはそれをこの目で見ることになります」
「……ガルド星に、警告の連絡はした?」
「いいえ」
「……」
「私がこの事実を知ったのが2時間と20分前でした。警告をしたところで、ガルド星にいる誰ひとり、時間内に脱出はできません。であれば、無用の混乱を引き起こすだけの連絡は不要かと」
「……そうね。あなたは正しい」
サラはそれだけ言うと、一度、執務室の椅子から立ち上がった。うろうろと、部屋を2周ほど歩いて回る。サラももちろん理解していた。赤色巨星である恒星レクトポネとわずか80光年しか離れていないというリスクを。歴代の大統領たちは、全員、恒星レクトポネ対策の必要性を後任の大統領に申し送りをしてきた。ただ、どの時代にも「喫緊の問題」というやつはあり、数千年先の問題よりも、皆、その喫緊の問題に先に取り組んだ。結果的に、恒星レクトポネに対する備えは、ひたすら先送りされ続けてきた。二千年の間。ずっと。

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