第二章 1 終わりの始まり

その日、大統領専用車がゼロの広場に入る1分前。ハムダル本星と、それとシステムを同一にする三つの衛星にあるすべてのオンライン・モニターが、大統領演説のライブ中継映像に強制的に切り替わった。
大統領の盾であるメイ・ウォンが、広場の大観衆を見て緊張を新たにしたその時。
大統領を自分の目で直接見てみようと、シード・グリンというビジターの娘がゼロの広場に来て、顔を隠した痩せぎすの黒ずくめの女にドスンとぶつかられた、その時。
それらを、ママと名乗る女が、まだ少女の面影のある狙撃手と共に「クラッシュの塔」の上から見ていた、その時。
ハムダルから51万3000メードほど上空を周回する第一衛星・ルーンでは、ヘンリ・クープという男が、ドーム・シティの集合住宅にある小さな自宅の小さな書斎で、サラの演説が始まるのを待っていた。椅子に浅く腰を下ろし、両手を膝の上で組む。右手の震えを左手の握力で抑え、左手の震えは右手の握力で抑える。掌にじんわりと汗を感じる。と、書斎のドアがいきなり開き、ひとり息子のマオが顔を見せた。
「なんで別々に見るの? 父さんもリビングで一緒に見ようよ」
マオには生まれつき下肢が無い。なのでヘンリはこれまで、可能な限り高性能の人工脚を息子に与えることに収入の大半を投じてきた。ヘンリは、ピュアの中では収入の高い方ではなかったので、色やテクスチュアの質感など人工脚の外見にまではあまりコストをかけられなかった。しかし、神経節への接続キットは常に最高級のものにアップデートし続けてきたので、ドアから入ってくるマオの動き自体は、とても滑らかで美しかった。
「? 父さん、どうしたの?」
マオが、ヘンリの顔をまじまじと見る。
「父さん、泣いているの?」
まさか。泣いているわけは無い。泣いたところで何かが変わるわけでは無い。だが、手を頬に持っていくと、確かにそこは濡れていた。それが、ヘンリの心を更に重くした。
「目に、ゴミでも入ったかな」
我ながら説得力のない嘘だ。そうヘンリは思った。
「今日だけじゃない。父さん、ここ最近、ずっと変だよ。仕事で何かあったの?」
「何もないよ。目にゴミが入ったんだ」
「でも、ハムダル本星からダイレクト・コールが来てからだよ。あれ以来、父さん、一度も笑ってない」
「そんなことはない。昨日の夜だって、一緒にコメディ映画を観たじゃないか」
「観ただけだよ。父さんは笑ってなかった。俺、ずっと父さんを観察してたんだ」
マオが心配そうにヘンリの側に来て、濡れている彼の頬に手を伸ばした。ヘンリはその手をギュッと掴んだ。マオ。優しい子だ。ヘンリは、自分の決断を後悔したことは一度もなかった。ただの一度も。
と、モニターの中の群衆が大きくどよめいた。サラ・ヴェリチェリが広場に到着したらしい。
「マオ。おまえは母さんと一緒に見なさい。父さんは、この中継はひとりで見たいんだ」
「どうして?」
「理由は、今度話す」
「……」
マオはとても聞き分けの良い子どもだった。なので、それ以上ヘンリにあれこれ質問をせず、健常者とほぼ変わらない歩き方で書斎の外に出ていった。その背中を見つめながら、ヘンリは、マオがまだ妻のチヒのお腹の中にいたあの日のことを思い返した。

当時のヘンリ・クープは、衛星ルーンではなく、ハムダル本星に住む一般的なピュアの一人だった。ハムダル星防省星防局の宇宙管理部・中遠宙域管理課に勤務していた。政府は、ハムダル本星を中心に、1光時間の近距離から50光年近い遠距離まで、全方向に約1000機の「ドット」と呼ばれる無人探査機を配置していた。ドットは、量子もつれの通信システムを搭載した半径0.2メードの小さな銀色の球体で、周囲の恒星との相対距離を把握して、自らの宇宙座標を自動で保つ機能を有していた。ドットから送られてくる定期通信のデータはすべて、まず「グランド・スペース」に届く。「グランド・スペース」とは、首都リグラブから2.5時間ほど小型マグレブ・トラックで北に走ると現れる巨大な宇宙データ管理施設で、そこでドットからのデータは集計・解析・分類・加工・暗号化され、必要とする各署に転送される。ヘンリ・クープは、それらのデータ収集業務に必要な予算と雑務を管理する総務課長だった。
月に一度、ザ・ボックスで行われる宇宙管理部の部会に出席し、それ以外の日は、「グランド・スペース」に併設されているピュア専用の単身赴任施設で寝泊りする。そして、休日の前夜からはリグラブの自宅に戻って妻のチヒと過ごす。それが、ヘンリ・クープの日常だった。

奇しくも18年前の今日だった。
「ヘンリ課長、さっき、ライ・ガザ主任が課長を探してましたよ」
若いが小太りのタイム・ワーク社員から、ヘンリはそう言われた。
「ライ君が? 彼、どこにいるの」
「さあ。2スタか3スタだと思いますけど」
「ありがとう。どこですれ違ってしまったんだろう」
あと数分で昼休みという時だった。ヘンリは、妻が転送してくれたランチ・ボックスを手に、「プール」と呼ばれるデータ管理室に向かった。そこは、ハムダル宇宙データ管理施設の言わば心臓部。半径50メードほどの窓のない円形の空間に8つのスタジオが円形に配置されている。天井は視認出来ないほど高く、何層もの透明パネルが重なるように張り巡らされ、その間を青白いデータの光脈が粛々と流れている。ライ・ガザは3番目のスタジオにいた。半透明の光膜に囲まれた個人ブースの中で、難しい顔をして立っている。
「ライ君!」
声をかける。
「僕を探してるんだって? キャプラス君から聞いたよ」
ヘンリは、笑顔で尋ねた。ライは、ヘンリが手にぶら下げているランチ・ボックスをチラリとみて、
「もう昼休みでしたね。わざわざご足労いただいて、申し訳ありませんでした」
と、頭を下げた。
「人手が足りないっていう話なら聞かないよ」
そう言って、ヘンリはおどけたように肩をすくめてみせた。
「先日のザ・ボックスの会議でも、研究員不足をビジターで賄うことは認めないと強く上から言われたばかりでね。おかげで、宇宙大学卒のピュアは各所で取り合いで、物凄い競争率なんだ」
ヘンリの予想では、ライは苦笑いをしてこんな言葉を続けると思っていた
「少ない人員でも回せるように知恵を絞ってこそピュアだろう、ということですね? でも、何事にも限界はありますよ? たったの十三人のピュアで、1000のドットのご機嫌をとり続けるのはなかなか大変です」
だが、そうではなかった。ライ・ガザは硬い表情のまま、出力したばかりのファイルをひとつ、ヘンリに向かって差し出した。

HQ21-3710
HQ21-3720
HQ22-3811
HQ22-3821
HQ22-3831
HQ24-3900
HQ24-3910
HQ24-3920
HQ24-3931

ヘンリが質問をする前に、ライ・ガザが説明を補足した。
「その9つのドットからの通信が途絶えました」
「途絶えた?」
「はい。それもほぼ同時に」
「……」
アルファべの次にある2桁の数字は、そのドットとハムダルの距離を示している。21なら21光年。24なら24光年である。
「ザラフ星、ドゥール星、レイサル星。その三つの星の周回ドットが、同時にダウンしたようです」
「大きな磁気嵐でもあったかな」
「星三つで同時に、ですか?」
「それは不自然か」
「はい」
「HQタイプのドットの耐用年数は?」
「外殻は2000年。通信システムそのものは、宇宙放射線の影響を最大限に見積もって500年です」
「なるほど。もう500年は使っているのかな?」
「いえ、まだ250年から300年ほどです」
「そうか……」
「通信が出来ないので、遠隔操作で物理的な修理をしたりプログラムをアップデートすることが出来ません。新しいものを代替で飛ばすか、あるいは、修理のためのエンジニアをその宙域まで送り込むかしないと」
「むう」
ヘンリは唸った。ドット9機となると、どのような対策を取るにしても、経費も手間も膨大である。
ちなみに、ヘンリ・クープは、20光年から35光年までの中遠宙域の担当課長だった。それより近く、あるいは遠くの探査機とそのデータは、それぞれ近接宙域管理課と極遠宇宙管理課が担当している。あとほんの少しハムダルに近いドットだったら、これらの修理はヘンリの仕事にならずに済んだ。
(ついてないな……)
そんなことを思いながら、もう一度、ライ・ガサから渡されたファイルに目を落とす。
ザラフ星、ドゥール星、レイサル星。
これらの星に共通する何かはあるだろうか。
ザラフ星、ドゥール星、レイサル星。
が、ヘンリの思考は、すぐに遮られてしまった。左耳の後ろに装着していた個人用の携帯端末が、通話リクエストを通知してきたからだ。相手先の名を聞いて、ヘンリは不吉なものを感じた。通話リクエストは、妻のチヒが通う、ピュア専門の産婦人科病院からだった。

「この件は私が預かるよ。どう対処するにしても莫大な金がかかる。本省マターになるのは間違いないからね」
そう言って、ヘンリはライ・ガザのブースから出た。スタジオの外廊下まで出てから、
「通話承諾」
と小声で呟く。すぐに若い男の声が聞こえてきた。
「ヘンリ・クープ様。お仕事中にもかかわらず、コールの承認をありがとうございます。私、チヒ様を担当させていただいております産婦人科医のビリ・オットンと申します」
「いえいえ。私は今、昼休みなので、ちょうど良いタイミングでしたよ。それで、ご用件は?」
ヘンリは、嫌な予感を振り払おうと、努めて明るい声を出した。が、オットン医師の声は、硬く、やや沈み気味だった。
「ご多忙のところ恐縮なのですが、直接お目にかかってご説明したいことがございまして」
「説明?」
「はい。このたびの奥様のご懐妊のことで」
「なるほど。妻の妊娠のことで、私に何か説明を?」
「はい。出来れば、まずはヘンリ様おひとりにご説明をしたいのです。そして、奥様にどうお知らせするかのご相談も、その時に一緒にさせていただければと思っております」
「……」
やはり、悪い知らせだ。ヘンリとチヒはずっと子宝に恵まれなかった。が、お互いの生殖能力が大きく低下し始め、子どもはもう諦めようかと話し始めた矢先に、奇跡のような妻の妊娠があったのだった。だが、ヘンリはそれを親にも親戚にも友人たちにもまだ話していなかった。出産適齢期を過ぎてからのピュアの妊娠には多くのリスクがあることを知っていたからだ。
「説明を聞くのは、きっと早い方が良いのでしょうね?」
努めて平常心を心がけながら、ヘンリは尋ねる。
「そうですね。はい。早い方がよろしいかと」
その答えに、一段と、悪い予感が募る。
「たとえば、今日の夕方でも?」
「はい。こちらは今日の夕方でも大丈夫です」

ヘンリ・クープは、午後の勤務を早退することにした。移動中に少しでも仕事はしようと「未処理」のフォルダのデータを携帯用チップにコピーし、1時間に1本の間隔で運行しているリグラブとの定期運行トラックに乗り込んだ。が、その車中で仕事をする気にはついになれなかった。
チヒの通うオットン産婦人科は、リグラブの北側にあるピュア専用居住区の中にある。スタッフには「ホワイト・パス」と呼ばれる通過許可証を得たビジターもいるが、医師は全員ピュア、そして患者もすべてピュアだった。チヒの母は、チヒをこの病院で産んだ。チヒの祖母も、チヒの母をこの病院で産んだ。なのでチヒも、妊娠したら出産はこの病院でと前から決めていた。ちなみにビリ・オットンは、ハムダル宇宙大学で医学博士とは別に遺伝生物学の博士号も取った秀才で、三年前に父のハリ・オットンから院長の座を引き継いでいた。『とっても優秀な先生なのよ』と食事時に何度もチヒが話していたし、医師が優秀であることはヘンリにとっても喜ばしいことだった。そのうち何か手土産を持って自分から挨拶に行こうと思っていたのに、初対面が、よもやこんな形になってしまうとは。
ザ・ボックスをそのまま縮小したような小さく白い立方体の病院に入る。受付で自分の名前を告げると、予約時間までにはまだ30分近く間があるにもかかわらず、ヘンリはすぐにビリ・オットンの部屋に通された。
「ようこそおいでくださいました。どうぞ、そちらにお座りください」
勧められるままヘンリは部屋の中央にある椅子に座る。ビリ・オットンはそれを見届けると、自分は立ったままで告知を始めた。
「まず最初に、とても残念なお知らせをさせてください」
ある程度の覚悟をしてきたへンリは、じっと次の言葉を待った。ビリ・オットンは、背後の白い壁を三本の指でトントンと叩く。と、壁がふわりと発光し、チヒの名前と胎児の写真、そしていくつかの記号と数字の羅列が表示された。
「先日行った検査の結果、お腹のお子様に障害があることがわかりました」
「障害?」
「はい。それも重大な」
「……」
ヘンリは、胎児の写真を見つめる。が、まだそこに写っている我が子は小さ過ぎて、どこが正常でどこからがそうでないのか、彼には全くわからなかった。
「具体的には、どんな?」
なるべく平静を保つのだと自分に言い聞かせながら、ヘンリは訊いた。
「どういう形で障害が現れるかは、まだわかりません」
「わからない?」
「はい。障害は知能に現れるかもしれませんし、身体器官に現れるかもしれない。一見正常に生まれるけれど、数年のうちに進行性のがんを発症するかもしれない」
「言われている意味がわかりません」
「問題は、遺伝子なのです。今、奥様のお腹にいるお子様は、遺伝子を正常にコピーする能力がとても低いのです」
「!」
「これから細胞分裂を繰り返し、人としての機能を作っていく中で、ほぼ必ず、何らかの障害が発生して来るでしょう。途中で死産となる可能性もあります」
「待ってください。検査結果が間違っているという可能性は無いのですか?」
「これまでに3回の検査を行いました。そのすべてが検査ミスという可能性は、有り得ないと言ってよいでしょう」
ヘンリは思わず呻いた。ビリ・オットンは黙って、ヘンリが自力で気持ちを落ち着かせるのを待っていた。
「出産して、それから治療する、という選択肢は無いのですか?」
ヘンリは、一縷の望みを胸に、そう医師に尋ねた。ビリ・オットンは、その質問を予想していたらしい。トントンとまた壁を叩き、新たな文章を表示させた。それはこのまま出産した場合のリスクについて、一般人にもわかるよう専門用語を使わずに書かれていた。それを、最初からゆっくりとヘンリは読んでいく。どれもこれも、ヘンリの心を打ちのめすことばかりが書かれていた。そして最後の項が、その締め括りだった。そこには、あえて太字で、こう記されていた。

『無事にご出産をされたとしても、
そのお子様には「スコア」が付与されません。
「スコア」が無いお子様には、
ピュアとしての権利が認められません』

「ちょっと待ってくれ! ピュアの両親から生まれた子供がピュアじゃないなんて、そんなバカな話があるか!」
思わずヘンリは声を荒げた。ビリ・オットンは悲しげに頷いた。
「お気持ちは良くわかります。ただこれが、この星の絶対方針なのです」
「俺はピュアだぞ! 妻もピュアだぞ! そのふたりの子どもが、どうしてピュアじゃないんだ! ふざけるな!」
平静を保つという決意を忘れ、ヘンリは初対面の若い医師を大声で怒鳴りつけた。ビリ・オットンは動じなかった。
「ヘンリ様。ピュアの小学校で繰り返し習いましたよね? 何度となく暗唱しましたよね? 『我々はこの宇宙でもっとも優れた知性を有する種である。劣等な種族と交わることなくその優れた遺伝子を可能な限りピュアな形で未来の子孫に渡す。これ、すなわち、種の保存』」
「……」
「単純労働力の確保のために『ビジター』という名の移民を受け入れてはいますが、我々の社会の本来の目的は『種の保存』です。この銀河で唯一ワープによる宇宙航法を会得し、政治・経済・軍事などで最も優秀な種であるハムダル・ピュア。この星の社会制度はすべて、そのハムダル・ピュアの遺伝子をより良く保存することを目指して設計されているのです」
「……」
「実はですね、ヘンリ様。社会不安の蔓延を防ぐために情報の統制がされているだけで、実は、あなたとチヒ様のようなケースはたくさんあるのです。生物学的見地から見れば、近親交配は生命の力を弱めることがわかっていますからね」
「近親交配? 私とチヒは兄妹でもいとこでもありませんよ!」
「でも、お互いピュアです。ピュアはこの星に130万人しかいないのです。そして、少なくともこの2000年、私たちはこの130万人同士で結婚し、子どもを作り続けている」
「!」
「種の保存というのは、実は最初から矛盾した目的なのです。種をピュアに保存しようとすればするほど、私たちの血はどんどん濃くなり、『近交退化』と言って先天性の異常が発生しやすくなります。ハムダルの医学はずっと、この近交退化との戦いの歴史なのです。遺伝子の優劣を『スコア』で可視化しているのもそのためです。そして、ヘンリ様のお子様は、このもっとも大事な『遺伝子を伝える』という能力に異常があるのです。なのでスコアはゼロです。そして、スコアがゼロということは、この星ではビジターとしか見なされないのです」

「……」
ヘンリは何も反論めいたことが言えなかった。この若く優秀な医者は、要は、子どもを諦めろと言っている。出産をしたところで、生まれてくる子はハムダル・ピュアの種の保存には役に立たないことが決まっているからだ。
「……名前も、もう決めていたのに」
肩を落としてヘンリは言った。
「妻がね、きっと男の子だって言うんだ。私にはわかる。お腹の中の子は男の子だって」
「本当にお気の毒です。ただ、お子様は授かりものと言います。次のチャンスがあるかもしれません」
「妻の年齢は先生も知っているでしょう? 気休めはやめてください!」
そう怒鳴ると、ヘンリは両手で顔を覆った。そんなヘンリに、ビリ・オットンはもう一言だけ言わなければならなかった。
「お子様を諦める場合は、処置は一日でも早い方が母体へのダメージが少なくて済みます。奥様にはヘンリ様から話されますか? それとも私がお話ししましょうか?」

気持ちを落ち着けるため、ヘンリはあえて、病院から家まで徒歩で帰宅することにした。ピュア居住区は、有害な紫外線や宇宙放射線を100%遮断する特殊なガラス・ドームの中にある。最新鋭の空気清浄装置で何重にも濾過した完全にクリーンな空気。いわば巨大な無菌室。この中であれば、感染症に弱いとされるピュアたちでも、内服薬や各種シールドや携帯型イオン・バリアに頼らずに戸外を歩くことが出来た。
道中、いくつもの記憶のかけらがランダムにヘンリの脳裏に現れては消えた。
たとえば、ヘンリの父親が突然夕食を食べに家に来て、「このまま子どもが出来なかったら、おまえはピュアとしてどうするつもりなんだ?」と訊いてきたこと。妻のチヒが同じテーブルにいるにもかかわらず、彼はその質問をヘンリひとりに訊いてきた。
あるいは、それよりもずっと前。子供時代、運動神経が悪くて落ち込んでいるヘンリに言った母の慰めの言葉。
「少しくらい駆けっこが遅いからってなんだと言うの。もしビジターに生まれてたらと考えてごらんなさい。ね? ピュアに生まれて来られただけで、とてもとても幸せな事でしょう?」
それから、チヒの妊娠が判明した日。彼女は家に帰るなり、持っていた精神安定剤を全部ゴミ箱に投げ捨てた。
「もう要らないわ! だって私、これからお母さんになるのだもの!」
そして、ヘンリを強く抱きしめた。そんなチヒを、ヘンリも強く強く抱きしめ返した。あの日は幸せの絶頂だった。こんな思いをするくらいなら、そもそも最初から妊娠なんて奇跡が起きなければ良かったのに。
それからヘンリは、
それでも「産む」……
という選択肢はどうだろうと自問した。
どんな障害を持って生まれてくるのかはわからない。だが、チヒとふたりなら、たいていの困難は乗り越えられる気がする。それにハムダルの医学はこの銀河で最高の水準にあり、それは今も更なる発展を続けている。現在では治療不可能と診断される障害も、数年後には状況が変わっている可能性はある。そうだ。可能性はあるのだ。奇跡は起きるかもしれないのだ。そんなことをぐるぐると思いながら、しかし最後には、ヘンリは思い出すのだった。ビリ・オットンの、あの通告を。

『無事にご出産をされたとしても、そのお子様には「スコア」が付与されません。「スコア」が無いということは、そのお子様にはピュアとしての権利が認められません』

(そんなバカな……)
ピュアとしての権利が認められないということは、清潔で安全なピュア居住区に住めないということだ。学校だってそうだ。野蛮で不潔なビジターたちに混じってダウンタウンの学校に通うことになる。ピュアの両親を持つ障害児。ひどいいじめの対象となるだろう。教師だってビジターなのだ。マオを……チヒは、男の子が生まれたら名前を「マオ」にするのだと何度も笑顔で言っていた。ヘンリもマオは良い名前だと思っていた……そのマオを、ビジターの教師たちはきちんと守ってくれるだろうか。
(そんな人生が、幸せと言えるだろうか……)
歩いても、歩いても、考えはまとまらなかった。まとまらないので、更にヘンリは歩いた。歩いて、歩いて、やがてヘンリはピュア居住区の西端ゲートの前まで来てしまった。我が家のある場所とは全く違う方角だった。
ガラス越しに見える向こう側は、ビジターたちの街だ。空はただの空。大気はただの大気。紫外線も宇宙放射線もカットされず、雑菌が大気中を浮遊している。色違いというだけで、間取りもデザインも同じ格安の建て売り住宅が大量に並んでいる。それぞれの小さな庭で、ブランコをこぐチリチリの黒髪の女の子や、芝生の上でじゃれ合う黄色や茶色の肌の子どもたちが見えた。更にその向こうでは、上半身裸のまま、元気良く自転車に立ち乗りをしている子ども。背中にびっしりと鱗のようなものが覆っている。鱗がある種は複数の星系にまたがって分布していて、背中にだけある種、腕と足にだけある種、顔を含む全身が鱗で覆われた種などがあるという。ヘンリはそれを知識としては持っていたが、実際に自分の目で鱗を見たのは初めてだった。どの子たちも、健康で楽しそうだった。そんな子どもたちを、夕焼けが柔らかく照らしている。
(美しいな……)
ヘンリは、思い切ってゲートの外に出ることにした。
抗ウイルスのための液体を二滴、舌の下に垂らす。この道を車で通過したことはあるが、自分の足で歩くのは初めてだった。最初の十字路をなんとなく右に折れ、次の十字路ではなんとなく左に曲がった。と、曲がった先に露店の花屋があり、ダークブロンドの髪の青年が暇そうに店の前に座っていた。
「お花はどうですか? ミスター」
ヘンリを見かけて、青年は言いながら立ち上がった。長身で白い肌。アイス・ブルーの瞳に美しく高い鼻筋。外見はピュアに見えたが、ここはビジターたちの集落である。
(もしや、この青年にも何か障害があるのだろうか。そのせいで、スコアが無く、こんなところに落ちぶれているのだろうか……)
思わず、そんなことを考える。青年は、屈託のない笑顔で、
「愛する奥さんにたまにはお花のプレゼント。良いと思いますよ!」
と、花を売り込んで来る。
チヒは花が大好きだ。だが、ヘンリは結婚以来、チヒに花をプレゼントしたことは無い。新築で家を建てた時、たくさんの花が親戚や同僚たちから届いた。ハムダルで流通している花は、満開状態のまま数年は枯れないように遺伝子操作されているし、年に一度、専門の業者がその枯れない花を入れ替えていく。なので、ヘンリの家では常にたくさんの花が咲いていて、わざわざ自分で新たに買い足す必要は無かった。
じっと、花を見る。
花を見る。
花の中にもあるはずの命を見る。
「あれ? ミスター、もしかしてピュアの方ですか?」
青年は、ヘンリの肌も青年と同じくらい白いことにようやく気づいたようだった。
「そうだよ」
短く返事をする。「君もピュアかい?」という質問は怖くて出来なかった。
「へえ。珍しいですね」
「ピュアがここを歩いているのがかね?」
「そうじゃなくて、ピュアの男性なのに、花をじっと見つめたりするのが」
「……」
「ピュアの人って、合理的とか効率的とか、そういうのが好きでしょう? 花っていうのは、そういうのとは真逆なものですからね」
「それは不正確な情報だよ。確かに私は、合理的で効率的であることは大好きだが、それと同じくらい、花の持つ美しさも素晴らしいと思っているよ。私も、私の妻も」
「へええ、そうですか。じゃ、ちょっと待っててもらえます?」
そう言うと、青年は露店の奥に一度引っ込み、やがて別の花のバケツを手に戻ってきた。
「こいつはうちのとっておきの花なんですよ。特別な花。花好きのミスターの家にも、きっとこいつは無いと思います」
「どう特別なんだね?」
「それは、買ってみてからのお楽しみです」
そう言って青年はウインクをした。少しキザな男のようだ。
(彼はどこに障害を持っているのだろう)
また同じことを考え、そしてすぐにその思考を振り払った。
ヘンリは、彼の差し出した「特別な花」を見つめる。それは、ピュアが記念日に贈答し合う花に比べると、一輪一輪が小さく地味だった。だが、白とレモンイエローの混じり合った花びらは可愛かったし、今日は手ぶらで家に帰るのが気が重くもあった。
ヘンリ・クープはその花を買うことにした。

平日に夫が突然帰宅したこと、しかもその夫がビジターの露店で花を買ってきたことに、チヒはとても驚いた。
「あなたが、こんなサプライズをしてくれるなんて!」
チヒはヘンリを抱きしめ、いつもより少し長めにキスをし、それから花束を受け取った。
「とても可愛い花ね。私、とても気に入ったわ。寝室のライトの側に飾ろうかしら。それとも食卓の上が良いかしら」
チヒは少しはしゃいだ声で言った。
「そうそう。今日読んだ本に書いてあったんだけど、美しいお花は、お腹の子の情操教育にもなるんですって。私の目を通して、この子も今、きっとこの可愛い花たちを眺めているのよ」
そう言ってチヒは、愛おしそうにお腹をさすった。そんなチヒを見ながら、ヘンリは一生懸命微笑んだ。微笑みながら心の中でこう呟いた。
(無理だ。言えない。俺には言えない……)
チヒの受けるショックは、自分の何倍も大きいだろう。明日、自分はまたグランド・スペースまで戻らなければならない。必然、チヒはこの家でひとりになる。チヒを、何日もひとりで、今回の知らせのショックと戦わせるのは忍びない。そうヘンリは思った。
「うん。このお花は食卓にするわ。あ、そうそう。実は今日、マタニティの教室にも初めて行ってみたんだけど」
話しを続けるチヒに笑顔で相槌を打ちながら、
(週末だ。週末まで待ってから打ち明けよう)
ヘンリはそう決心した。

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