「りんごが箱から出た」
これは実は、暗号でも何でもなかった。りんごというのは、ハムダルでは古代種と呼ばれている果実で、成熟すると実が鮮やかな赤色になる。ハムダル星で初の女性大統領となったサラ・ヴェリチェリは、化粧をする時、いつも頬の赤色が少し強めだったので、彼女を嫌うビジターの星民たちからは「お高いりんご」と陰口を叩かれていたし、その彼女が執務する大統領府は、ママの大嫌いなハコ……バンドー沖の小島に建つ純白の立方体=「ザ・ボックス」の中にあった。なので「りんごが箱から出た」というのは、そのまま「サラ・ヴェリチェリがザ・ボックスから出た」という意味であった。
ママが、狙撃者の少女とクラッシュの塔で出会った頃、ハムダル星防省星防局警備部警護班、通称「盾」に所属する女性隊士のメイ・ウォンは、ザ・ボックスの地下五階にあるVIP専用エントランスの車寄せで、サラ・ヴェリチェリが来るのを待っていた。黒褐色の肌。短く刈り揃えた黒く強固な縮毛。完全にシンメトリーな美しいたまご型の顔。声は女性としてはやや低めで、目つきは鋭い。他の隊員は、春の陽気に合わせて短い袖の制服を着ていたが、メイ・ウォンは長い袖の制服のままだった。
「そんなに緊張するなよ、メイ。こっちまで緊張してくるだろう」
メイの硬い表情を見て、上司のボフ・ライが声をかけてきた。
「すみません。でも、二ヶ月ですからね」
メイは答えながら、制服の袖の上から自分の二の腕を撫でた。それが、緊張している時のメイの癖だった。メイは、大統領専属のSPであるにも関わらず、二ヶ月も、自分が守るべき大統領その人の顔を見ていなかった。なんと、二ヶ月も。その間、サラ・ヴェリチェリはザ・ボックスに閉じ籠ったまま、一度も自宅に帰らなかった。メディアの取材も受けなかった。公の場にも出席しなかった。オンラインで演説をしたり、動画でコメントを発表することも無かった。二ヶ月間、大統領執務室で寝泊りをし、ごく限られた側近以外は執務室の中に入ることも出来なかった。ハムダルじゅうが騒然となったあの事件……あの事件の時でさえ、彼女は執務室から出てこなかった。世間の半分は、サラ・ヴェリチェリは仕事をサボっていると非難し、残りの半分は、彼女が何か重い病いを患っているのではないかと疑い始めた。メイは後者だった。
メイにとって、サラは恩人だ。
兄のロウとふたりきり、タイスという貧しい星からハムダルに出稼ぎに来た。最初はふたりとも、最下級であるパートタイムの巡査として働いていたが、どこで目に留めて貰えたのか、ある日突然、メイは大統領付きの「盾」に抜擢された。数多くの候補者たちの中から、サラ本人がメイのプロフィールをピックアップしたのだと聞かされ、メイは感激した。その期待に応え、不測の事態が起きた時には命がけでサラを守ろう……メイはそう心に決めていた。しかし、サラ本人が病気になってしまうと、メイに出来ることは何も無い。この二ヶ月の間、彼女はずっとサラの体調を案じていた。サラについてはどんな情報でも知りたかった。しかし、大統領に関する情報統制は厳重で、大統領の警護を職務とする「盾」にすら何一つ情報は落ちてこなかった。また、ザ・ボックスは原則としてピュア専用の建物であり、許可を受けた特別なビジターであっても、最下階である地下五階より上のフロアには入れない。なのでメイは、サラを見舞うことも、故郷の星のタイスの特産で、滋養強壮に素晴らしい効果のあるスーパーフルーツ・アルウォンを彼女に手渡すことも叶わなかった。
「二ヶ月も、いったい何をしてたんだろうな?」
口調から、ボフもサラを心配していたことが窺えた。
「でもまあ、これから広場で演説するって言うんだから、重病説は間違いだったってことだろ?」
あえて、明るい声を出すボフ。
(そうだと良いのだけれど……)
メイはそう心の中で呟いた。
発表は昨夜だった。ハムダル星にある4120の映像チャンネルと3000の音声チャンネルが、いきなりすべて、政府からの緊急放送に切り替わった。スリープ中のものはすべて遠隔装置でオンに切り替わった。
「ハムダル星とその衛星に住むすべての星民の皆さま。こんばんは」
メイは小型のビークルで帰宅の途中だった。音量を抑えめにして、故郷のタイスの音楽をかけるラジオを流していたが、突然ボリュームが上がり、聞き覚えある女性官僚の声が流れ始めた。
「明日の16時30分。ゼロの広場にて、サラ・ヴェリチェリ大統領が、ハムダル星のこれからについて皆さまに重大な発表を行います」
メイは慌ててブレーキを踏み、ビークルを道の端に止めた。そして、音声のみの設定を映像有りのチャンネルに切り替えた。先ほどの声の持ち主である女性が、マイクの前に座ってこちらに語りかけている。画面の下には、
「大統領筆頭補佐官 ノア・クム」
という文字が添えられている。サラ・ヴェリチェリが最も信頼を寄せている側近で、メイも何度も会ったことがある。そのノア・クムが、珍しくやや硬い表情で、メッセージを読み上げている。
『明日の16時30分。ゼロの広場です。お時間のある方は、ピュアの皆さまも、ビジターの皆さまも、聖なる広場に足をお運びください。それが難しい方は、大統領演説の中継をご覧ください。当日、すべてのチャンネルがサラ・ヴェリチェリ大統領の演説中継に切り替わります。これはとても異例なことですが、それだけ重大な発表なのだとご理解ください。ご静聴、ありがとうございました』
次の瞬間、スッとボリュームが下がり、チャンネルは通常放送に戻った。
一体、何が起きているのか。停止したビークルの中で、メイはしばらく考えた。ピュアだけでなく、選挙権の無い大勢のビジターたちまで集めて、大統領は何を語ろうというのか。と、仕事用のコール音が鳴った。上司のボフ・ライからだった。
「放送、聞いたか?」
「はい。聞きました」
「なら、すぐに『盾』の詰所に戻れ。明日の朝までにゼロの広場の警備計画を立ち上げて人員を配置しなけりゃならん。大混乱だよ」
「すぐに戻ります」
予定の時刻ちょうどに、大統領専用エレベーターのドアが開いた。
まず最初に、防弾防刃のナノマテリアル生地の制服を着込んだゴフェルという女性隊士が現れた。この身長1.3メードの小柄で若い女性は、普段はノア・クム筆頭補佐官付きのSPなのだが、要人の護衛に関して極めて特殊かつ高度な技能を身につけており、本日は例外として、大統領に最も近い位置で警護に当たることになっていた。ちなみに彼女はビジターではないので、ザ・ボックスのどのフロアにも入ることが出来た。
続いて白髪の老人、ランバル・ランバート。ハムダル星防省の省長経験者だけで構成されるハムダル名誉星防委員会の会長である。彼は、もちろんピュアだ。移動リストに名はなかったのでメイたちが驚くと、彼は苦笑いをしながらこう言った。
「わしは行かんよ。ただの見送りさ。あんな空気の汚いところ、わしの体では耐えきれん。たとえ命令されたって行くものか。わしはただの見送りさ」
そして、その奥から、白いスツゥを身に纏ったサラ・ヴェリチェリ。スツゥとは、公式の行事の時にピュアが着る、薄く光沢感のある生地を使った衣装で、中でも白はピュアを象徴する色ということで、重要な場ではこれを着用するのが慣例だった。
「皆さま、お久しぶりね」
そう言って、サラは盾の隊員たちに微笑んだ。顔色は良く、足取りもしっかりしている。メイは安堵のため息を小さくつきながら、大統領車の後部ドアを開けた。手動である。この女性大統領は手動のドアが好みだった。大統領が乗り込む。メイとゴフェルがその両隣りに座る。そしてドアを二重にロックする。大統領車前方の左側にはボフ・ライが、右側にはギリというベテランの隊士が乗った。大統領車は基本的には自動運転だが、ハッキングや電磁波攻撃などの悪意に大統領車が晒された時は速やかに手動運転に切り替わる。ギリは、盾の隊士の中でも最も手動運転が上手な隊士だった。そして、大統領車と同じ外観の車が前後に二台。加えて、星防省と書かれた軍用車が四台。
「大統領。ルーンはお飲みになられましたか?」
ボフが尋ねる。ルーンとはハムダル星を周回する衛星のことだが、今、ボフが言っているのは、そのハムダルの月と色形の見た目がそっくりな抗ウイルスの丸薬のことである。その丸薬はピュアのためだけに製造されており、彼ら彼女らは月に一度これを飲み、空気清浄が完璧ではないビジター地区に出かける時には更に追加で飲むことを原則にしている。
「もちろん飲んだわ。2錠」
大統領が答える。2錠ということは、ゼロの広場での滞在時間が少し延びる可能性があるということか。メイは気を引き締めた。
スンッというとても小さな音とともに、大統領車とその護衛車が動き始めた。
と、サラがメイに顔を近づけ、耳元で囁いた。
「そう言えば、この間はありがとうね。とても助かったわ」
「え?」
「あらやだ。もう忘れちゃったの? たったの二ヶ月前のことよ?」
もちろん忘れてなどいない。二ヶ月前、サラがザ・ボックスの執務室への閉じ籠りを始めるその前日、メイはサラにプライベートな頼まれ事をされたのだった。ただ、二ヶ月も経ってから改めて礼を言われるほどのこととは思っていなかった。
二ヶ月前、「盾」の詰め所。外耳のすぐ後ろに貼られたオーリクスという透明なフィルムが、待機中だったメイの耳骨を音声データで震わせた。
「メイ・ウォン。聞こえる? 聞こえても返事はしないで欲しいのだけど」
「え? だ、だい……」
「大統領?」と聞き返しそうになったのを、メイはすんでのところで踏み止まった。
「あなた、今日の勤務はあと15分で終わりよね? その後、1時間ほど空いてないかしら?『はい』なら咳払い1回で。『いいえ』なら咳払い2回で答えてちょうだい」
「え……あ……は……ううん」
しどろもどろになりながら、メイは咳払いを一回だけした。その日は兄のロウとその新婚の妻シーと三人で夕食を一緒にすることになっていたが、メイは反射的に「空いている」と答えた。なぜって、相手は大統領なのだ。
「良かった。じゃあ、私、15分後に下に降りるから、あなたのビークルをビジター用のエントランスに付けておいてくれるかしら?」
と、サラは言った。
「え? 私のですか?」
「声を出してはだめ」
「すみません」
「だから、声を出してはだめ」
「あ……ん……ううん」
咳払いをもう一度した。周囲は誰もメイを気にしていなかったので、その不自然さを突っ込む人間はいなかった。
「私は、あなたのビークルに乗りたいの。間違っても大統領車とかの出動を申請してはダメよ。あとこれは、完全にプライベートな行動だから、上の人間に報告とかも不要だから。良いわね? じゃ、15分後に!」
そこで通話は切れた。メイは、しばし茫然となったが、ハッと我に返ると、地下5階のエントランスの外にあるビジター専用の駐車場に向かって走り出した。
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