時は、相対的なものである。5分という時間は男には短か過ぎたが、老婆にはそうではなかった。
忘れようとして、強引に記憶から消し去ったこと。
忘れずにいようとして、しかし、いつの間にか上手く思い出せなくなっていたこと。
それらの両方が、男が矢継ぎ早に質問を重ねるせいで、老婆の脳裏に鮮明に甦ってきた。
ハムダル。
既に喪われた星。
氷惑星の地下の牢獄で、老婆は、かの星を思い出す。
ハムダル。
その首都リグラブ。
その首都リグラブの最後の春。
その首都リグラブの最後の春の、うららかな昼下がり。彼女は行きつけの店で、人生の最期の一杯になるかもしれない酒を飲んだ。そして、百と八つの惑星文字で書かれた看板たちを眺めながら、北の外れにある『クラッシュの塔』まで歩いて行った。酔いを醒ましつつ。
『クラッシュの塔』というのは、とある塔の残骸である。古代、大きな何かが激突したか爆発したかで、四階から上の部分が全て吹き飛んでいる。元々は100階建てとも、いや1000階以上ある天空の大塔であったとも言われているが、それらはすべて伝説伝承の類であり、真実は闇に包まれていた。リ・ボーン元年より前の出来事について、ハムダルの住人たちは真実を何も知らなかったのだ。まだ、その時は。
老婆は『クラッシュの塔』に登るのが好きだった。いや、当時は老婆ではない。彼女は本名を名乗らず、周囲の人間には、自らをただ「ママ」と呼ばせていた。女性だけで構成された犯罪集団、ローズ・ファミリー。ママは、そのファミリーのママ。つまり、首領だった。
塔に着く。床と柱はあるが、壁の半分以上は無い。中に入り、左の壁面と一体となっている階段を使って二階に上がる。リグラブの中心にある『ゼロ』という名の広場が見えてくる。首都の面積の4%を占めるだだっ広い円形の広場。真ん中には、古代石に彫られたハイ・レリーフがひとつ。それと、ハムダル星政府が400年ほど前に建造した、公式イベント用の多目的ステージ。その日の夕方、そこで、ハムダル星の大統領が演説をすることになっていた。ハムダル星で初めての女性大統領。名前をサラ・ヴェリチェリという。
更に三階へ。街の向こうにバンドーの埠頭が見えてくる。先ほどまでママが飲んでいた目抜き通りを、塔と反対側の南に抜けると、そこがバンドーの埠頭だ。海沿いに延々と1000メードほど続く長い埠頭で、夜になると漆黒の海面に街の灯りがキラキラと反射してとても美しい。
海。
ママは、海が好きだった。海のある星が好きだった。ハムダルが滅んだ後、彼女は宇宙を長く旅したが、ハムダルのように美しい海がある星とはついに出会えなかった。
残念なことに、バンドーの埠頭から見る海にも、欠点が一つだけあった。埠頭正面の沖合いに小島があり、その島の面積いっぱいに、白い真四角のハコが建っていた。「ピュア」と呼ばれる白色人種しか入れない白いハコ。ママにはそれが目障りで仕方なかった。そのハコを視界に入れないようにしないと、ママは海が楽しめなかった。なぜなら、ママにあれこれ指図をしてくる人間が、まさにそのハコの中にいたからである。
あの日もそういう日だった。
仕事だった。
「16時に『クラッシュの塔』のてっぺんに行け」
それがハコからママに届いた指示だった。それでママは「クソッ」「クソッ」と汚い言葉を吐きながら、指定された時間に『クラッシュの塔』に登ったのだった。
四階。最上階。
少し涼んだ風が吹いていた。
空には、綺麗な夕焼けが始まっていた。
そして、塔の端に、小娘がひとり、立っていた。
手に、旧式のライフルを持って。
「おい」
ママは、背後から小娘に声をかけた。小娘は振り返ると同時に、ライフルをママの顔に向けた。
「誰に鉄砲向けてんだい、バカタレが」
ママは呆れたように鼻を鳴らした。
「あんたが、約束の人?」
小娘は、じっとママを見つめたまま言った。目を逸らさないところは悪くない。それに、声が上ずっていないところも。そんなことをママは思った。
「あんたが、約束の人?」
小娘はもう一度、同じ質問をした。ママはそれには答えず、左手を突き出しながら言った。
「ちょっと、そいつを見せてみな」
「え?」
「その手に持ってる鉄砲だよ。そいつがおまえとアタシとの目印なんだろ? ちょっと見せてみな」
言いながら近づくと、小娘は素直にライフルをママに渡した。ママはそれを受け取ると、空いていた右手でいきなり小娘の頬を打った。
「!」
「バカかおまえは! 一つしかない武器を他人に渡してどうやって戦うんだ、この間抜け! 緊張感を持て!」
「でも俺、あんたの指示に従えって!」
抗議する小娘の胸ぐらを掴む。そして、グイッと小娘の顔を自分の近くに引き寄せ、囁き声でママは言った。
「政治屋の言うことは信用するな。あいつらは、息を吐くように嘘をつく」
「……」
それから、ママはしげしげと小娘のライフルを観察し、
「なんだい、これは。石器時代の武器かい? こんなのんびりした武器で、人が殺せるのかい?」
と質問をした。
「殺せます」
言いながら、小娘はママからライフルを取り返した。そして、
「ちゃんと、殺せます。一度、証明済みです」
と、やや小さな声で付け加えた。「証明済みです」と言った時、小娘の目に暗い何かが煌めいたようにママには感じた。どう証明をしたのだろう。誰を相手に証明をしたのだろう。ママは、小娘をじっと見た。だが、彼女はそれ以上の言葉は続けず、表情にも変化はなかった。と、ママの持っていた小型のトランシーバーに着信が来た。
ハスキーな女の声。
「りんごが箱から出たよ」
それだけ言うと、通話はそのまま切れた。ママは「ふむ」とひとり頷き、それから小娘に言った。
「良いだろう。ちゃんと殺せるって言うなら、そいつを信用して始めようか」
小娘は黙っていた。ママは、かつてはこの塔の壁の一部だったであろう残骸の上に腰を下ろした。
「アタシはママ。この作戦の指揮官だ。アタシに歯向かったり意見をしたらブチ殺す」
小娘は黙っていた。
「もうすぐ、あの広場のステージに標的が現れる。アタシが合図をしたら、おまえはそいつのここを一発で撃ち抜け」
ママは「ここ」という時に、自分の左胸、心臓の位置を真上からトントンと指で叩いた。小娘は黙っていた。
「おまえがきちんと仕事をすれば、アタシの家族もきちんと仕事をする。おまえが失敗したら、おまえをブチ殺すのがアタシの仕事になる。わかるな?」
小娘は黙っていた。ただ、ママが彼女の目を深く覗き込むようにすると、小さく一度だけうなづいた。遠くの広場には、大勢の人たちが、有名人をひと目見ようと集まっていた。ハムダル星で初めての女性大統領、サラ・ヴェリチェリを。
あと数分で、大きな仕事が始まる。始めてしまったら、後戻りは出来ない。ママは空を見上げた。美しい夕焼けの空。その淡い茜色の空に、ひとつだけ、飛び抜けて明るい星があった。蒼白色に輝くその星は、日中でも目を凝らせば見つけられるほど明るく、5センチメードほどの小口径望遠鏡で見れば、誰でもその輪郭が判別出来るほど巨大だった。
「おまえ。今から誰を撃つのか、知ってるのかい?」
ママは、その星を見つめながら言った。小娘は答えなかった。弾道がブレないよう補助の足を起こしてライフルを床に置き、黙々と照準器のセットをしている。
「そいつが、この星で初めての女性の大統領だっていうのも、知ってるのかい?」
小娘は答えない。
「アタシに質問されたら必ず答えな。それがルールだ」
語気を少しだけ強くする。
「知ってる」
小娘が最小限の言葉で答えた。
「そいつが、誰の母親なのかも、知ってるのかい?」
初めて小娘に変化があった。動きが一瞬止まり、目に小さな影が走った。
「知ってる」
小娘は返事をした。
(オーケイ。全部知ってる上での殺しなら、アタシがとやかく言うことじゃない)
ママはそれ以上、このことを考えるのをやめた。
「そう言えば、まだ、名前を聞いてなかったね」
「……」
「おまえ、名前は?」
「……」
さすがに本名は言わないだろうと思ったが、予想に反して、彼女はあっさりと自分の名を教えた。
「ヤン・ドー」
そして、ライフルの傍らに横になり、細く傷だらけの指を引き金にかけた。
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