ヤン・ドーは、小さな赤い惑星で生まれた。海の無い星だった。陸地はすべて、赤い砂岩で出来た岩山ばかりだった。一年中風が強く、その風をかわすために人々は谷に降り、砂岩を削って小さな盆地を作った。そしてそこで、わずかな家畜とともに肩を寄せ合って命を繋いできた。
ドー。
この星に生まれた者は、全員、苗字がドーだった。星全体でひとつの家族。それが、ドーの社会の大きな特徴だった。人々は温厚で優しく、歌と踊りが大好きで、食べ物はそんなにたくさんは無かったけれど、あれば必ず皆で分け合った。社会には上流も無ければ下流も無く、嘘も無く、諍いも争いも無く、争いが無いから「武器」と呼ばれるものも無かった。
ヤン・ドーはこの星で生まれ、厳しく長い冬を二度、越えた。
ドーの星では、冬を二度越えると大人とみなされる。新しい春。ヤンは、ごく普通のドーの女性のように、恋人を作り、恋人と同じ寝所で夜を過ごし、春の終わりか遅くとも夏の半ばには最初の出産をすると思っていた。出産の後は子育て。並行して、弟や妹を何人か産む。そして更に二度の冬を乗り切れば、今度は子供たちが恋人を作り、孫を作る。そうなればもう、思い残すことはない。穏やかな気持ちで余生を過ごし、大勢の家族に囲まれたままこの星で死ぬ。それが、幸せ。そういう幸せな人生を自分も歩むのだと思っていた。
ヤン・ドーの朝は、ダダルの世話から始まる。ダダルというのは、淡く半透明の虹色の羽毛を持つ大きな鶏のことで、その卵はドーの人たちの貴重なタンパク源になっていた。
日の出とともにヤンは目覚める。
ちなみに、ドーでは時刻の基本単位は日照時間の八分の一。日の出を紅の一時とし、太陽……ドーの人たちは、それを「ドワ」(世界を赤く染める星)と呼んでいた……が天頂に達すると紅の四時が終わる。午後は茜の時と呼ばれ、日の入りと同時に茜の四時が終わる。そして夜は時を数えず、ただ、藍の時、と呼ぶ。ドーの星は、夏は短く冬は長い。時の長さもそれに合わせ、夏は短く冬は長い。
ヤンは、日の出、つまり紅の一時になると同時に目覚め、いつも枕元に置いてあるフュルの小枝と蔓で編んだ黒い籠を手に持ち、ダダル小屋へ向かう。
「おはよう、みんな! 今日も『あなた』の祝福が、ダダルのみんなにもありますように!」
そう言いながら、ヤンはダダル小屋の扉を開ける。ダダルたちは既に列をなしてヤンを待っていて、扉が開くやいなや、大喜びで羽をバタつかせながら外の庭に飛び出していく。日の光がその羽を透過して、小屋の壁に綺麗な虹を映す。ダダルたちが全員外に出ると、ヤンは入れ替わりに小屋の中に入る。ダダルの寝床には、赤茶色の干し草が敷きつめられている。その干し草の中に手を入れると、ほんのりと温かい拳くらいの大きさの卵がある。
「みんな、今日もありがとう」
そう言いながら、卵をそっと持ち上げ、持参したフュルの籠の中に入れる。その日の朝の収穫は七つだった。ダダルの卵は、ひとつでドーの大人ふたり分の朝食になる。七つは十分過ぎる量だ。
と、背後から声がした。
「ヤン姉ちゃん!」
顔をあげると、いとこのトイとアキが水桶を手に立っている。
「見てよ!」
「すごいでしょ!」
ふたりは自慢げに水桶を持ち上げる。近寄って中を覗くと、大きな桶の半分近くまで、霜の結晶が溜まっていた。
「うわあ。ふたりとも頑張ったね。えらいね」
そう言って、ヤンは幼い兄弟の頭を撫でた。
ドーの星では、雨は降らない。川も無い。湧き水も無いし、地下水が無いので井戸も無い。ドーの人たちは、木々の葉に付く霜や朝露を集めて飲み水にしている。ドーの星の低地に育つフュルの木は、背は低いが幹は太く頑丈で、根を深く深く地下に伸ばす。その根で凍土を溶かして水分を得る。そして、その水分の一部を葉から大気に放出する。なので、フュルの枝に透明なハコを被せておくと、明け方のもっとも気温の低い時間に、葉から出た水分が霜となってハコの壁面に付く。夏ならそれが露になる。それらを水桶に集めるのは、冬を一度越した子供の仕事とされていた。
「ところでさ。ヤン姉ちゃんは、クロイ兄ちゃんと恋人になるの?」
アキが、ませた表情で訊いてきた。
「さあ、どうだろう。なんで?」
「なんでって、昨日の夜、クロイがそう言ってたからさ」
兄のトイの方は、最近、年の近い大人を呼び捨てにするようになっていた。クロイというのは、ヤンと同じ、冬を二度越えた若者だったが、彼は春すぐの生まれだったので、夏の終わりに生まれたヤンから見ると、ちょっと年上すぎる気がしていた。
「ハナが手を出さないんなら、俺が出すって」
トイが続ける。
「ヤン姉ちゃんは、どっちが好きなの? クロイ? それともハナ兄ちゃん?」
アキが質問をいくつもしてくる。アキは、物心ついた時からヤンにべったりと懐いていた男の子で、なので、ヤンの恋人選びが気になって仕方がないようだった。
「まだ何も考えてないよ。だって、まだ春が来たばっかりだもの」
ヤンは答える。
「そんなことより、この卵、お水と一緒に早くユリのところに届けてあげて。私もダダルたちに朝ご飯をあげたらすぐ行くから」
そう言って、ヤンは卵の入った黒い籠をふたりに渡し、彼らの背中を優しく押した。
なぜ、ヤンはすぐに恋人を作らないのか。
冬を三度以上越したドーの大人たちは、密かに心配をしていた。春になればすぐに恋をする。それがドーの星の習わしだった。恋をして、恋の歌を歌って、恋の相手と巡り合えたことを『あなた』に感謝をする。そして、藍の時、双子の月が一緒に夜空に登る頃、男は子供の頃に寝ていたベッドを片付け、女の部屋の扉を小さく三度、叩く。
これまで、数人の若い男がヤンの寝所の扉を叩いた。ヤンは扉を開かなかった。
「ぐっすり寝ていて、目が覚めなかったの」
翌朝、ヤンはいつもそう言った。しかし、その言い訳が二度になり、三度になり、四度になると、大人たちは心配し始めた。
ヤンは、ハナ・ドーという若者と仲が良かった。ハナは、もともとヤンの兄と幼なじみだったので、自然とヤンもハナと仲良くなった。大人たちは、
(ヤンは、ハナのことが好きなのだろう)
と考えた。
(ヤンは、ハナが扉を叩くのを待っているのだろう)
何人もの大人がハナに言った。
「ハナ。おまえ、ヤンの扉を叩いてはどうだ?」
ハナはその度にこう答えた。
「そうだね。そのうち行くよ」
その会話を、わざわざヤンに教えてくれる者もいた。
「ハナ、そのうち行くって答えていたよ。だから、ヤン。おまえも、心の準備をしておきなよ」
しかしまだ、ハナはヤンの寝所に来ていない。
小屋の横には金属製の円筒の餌入れがある。重たい蓋を開け、スコップを入れる。葉野菜の屑と、フュルの実を砕いたもの。そし雑穀の搾りかす。それらを混ぜたものが、ダダルたちの餌だ。スコップに山盛りそれを載せ、そのまま庭の真ん中に出る。
「行っくよー!」
明るく掛け声を出しながら、スコップを力強く振り回す。餌は、綺麗な放物線を描いて、ヤンを中心に半径10メードほどの円状にばら撒かれた。
オオゥ、オゥ、オゥ、オゥ!
ダダルたちは喜びの鳴き声を上げる。その鳴き声の強さや張り具合で、ヤンは彼らの体調がわかる。今日もダダルたちは全員健康だ。
それだけで、ヤンは満ち足りた心になる。
(今日も私は幸せだ)
スコップでの朝食配りを三回。それでいったん、ここでの仕事は終わりになる。餌入れの蓋を閉め、スコップを片付け、ヤンは叔母のユリの家に向かう。ユリ・ドー。ヤンの母の妹。黒く大きな瞳。すっきりとした鼻筋に、形の整った血色の良い唇。ヤンは昔から、この星で一番の美人はユリだと思っている。だがそれを言うたび、ユリはヤンにこう言った。
「ヤンのお母さんは、私なんかよりずっとずっと美人だったのよ」
そして、こう付け加える。
「姉さんは、美人過ぎた……」
そして、少しだけ哀しそうに遠くを見る。それが見たくなくて、やがてヤンは、ユリの容姿を褒めることをやめてしまった。でも、意見は変わっていない。冬を三度越し、二人の子供の母となっても、この星で一番の美人はユリだ。ヤンはそう思っている。
ドーの人たちの家は、どれも良く似ている。砂岩からくり抜いた赤い石を積み上げ、その上に、ホルンという草で葺いた屋根を乗せる。ドーの赤い砂岩は中にたくさんの気泡があり、強度は弱いが断熱効果は高かった。ホルンは根に殺菌力のある油があり、その香りは心を穏やかに保つのに効果がある。そして、ドーの人たちは皆、家の扉に花を飾る。それが表札の代わりでもある。ユリはいつも、ハミンという黄色い花を飾っていた。ひび割れた赤い砂岩の隙間に咲く、星の形をした可憐な花だ。それは、ヤンの好きな花でもあった。
その日、ヤンがハミンの扉の外に来ると、美味しそうなスープの香りが既にそこまで漂っていた。
「おはよう、ユリ」
言いながら、ヤンは家の中に入る。ユリは、山グミのサラダを盛り付けているところだった。その横で、ニタ婆が、フュルの木の枝で作った大きなスプウンで、火にかけた鉄鍋の中身をかき混ぜている。芋と、ケートというドーの星の固有種である大型の牛の乳と、その乳で作ったチーズを使ったポタージュ・スープだ。ヤンは、ニタ婆の作るこのスープが大好きだった。ニタ婆。ユリの母。そしてヤンの母であるマーサ・ドーの母。つまり、ヤンの祖母だ。
「あれ? 今日は父さんたちは誰もいないの?」
ヤンが訊くと、
「ああ、おらん」
と、ニタ婆は簡潔に答えた。
「トイとアキは? 先に戻っててって、私、言ったんだけど」
「実は、ミラ叔母さんが、
『クロ団子が上手に出来たからトイとアキも食べにおいで』
って言ってきて。それで、今日はふたりはあっちで朝ご飯を食べることになったのよ」
今度はユリが答えた。
「ふうん」
ヤンは小さく鼻を鳴らす。食事はいつだって、大勢で食べる方が楽しい。ミラ叔母さんがクロ団子を持ってこっちに来くれば、いつもより大勢で朝ご飯が食べられたのに。そんなことをちょっと思う。
「ヤン。たまには、女家族で水いらず、というのも良いじゃろ」
ニタ婆が、スープの鉄鍋を囲炉裏の隅に動かしながら言う。それから、鉄鍋の代わりに暗褐色の平たい石を火の中に置く。その上に、ダダルの卵をひとつ、手際良く割って落とす。
ジュッ。
美味しさを約束するかのような音が、部屋の中に響く。
その瞬間、ヤンはふと思った。
(もしかして、お説教かも……)
四人いるユリの夫が全員いないというのは極端だし、トイとアキにしても、クロ団子を食べるのは朝ご飯より茜の時のおやつの方が相応しい。もしかしたら、ニタ婆とユリは、男は全員追い出して、女だけの方が話しやすい会話をしようとしているのかもしれない。
ちなみに、ドーの社会では、家族という線引きは無いも同然だった。すべての子供たちを、すべての大人が力を合わせて分け隔てなく育てる。男も女も、複数の相手と結婚することができたので、生物学的な父親ははっきりしない場合が多かったし、子供たちも気にしなかった。どの子にもたくさんの父親がいる。それをみんな、普通に嬉しく思っていた。だが、父親と違って、母親は常に一人しかいない。母親は、常に明確だ。その明確さゆえに、母との絆、母の母との絆、母の兄弟との絆には、特別な強さがあった。幼い頃に母・マーサに死なれたヤンにとっては、つまり、ニタ婆とユリだ。
(あー、きっとそうだ……嫌だなあ……)
ダダルの卵に火が通る。それをニタ婆が素早くヘラですくって大皿に移す。スープはヤンがよそう。それらは、ユリが盛り付けたサラダと一緒に、十人以上が余裕で座れる大きな長方形のテーブルの真ん中に置かれた。
「今日は、洗い物が少なくて楽そうね」
ユリがそう言って微笑んだ。
ニタ婆は無言だった。
ヤンも一応、微笑んだ。
三人でテーブルに着く。
「今日も『あなた』の祝福が、私の可愛い子供たちと孫たち、そして子供たちと孫たちの愛する者たちにありますように」
ニタ婆が、目を閉じ、両の手を胸の前で組み、低い声で言った。
「祝福がありますように」
ユリとヤンが声を合わせた。ニタ婆はそれから更にこう付け加えた。
「この星に住む者だけでなく、遠い星に旅立った私の可愛い孫・レイジ ・ドーにも、『あなた』の祝福がありますように」
「祝福がありますように」
ユリとヤンも、もう一度声を合わせた。
ヤンの兄、レイジ・ドーがこの星を出て行ったのは、去年の秋のことだ。以来ずっと、ニタ婆は朝の祈りに必ずヤンの兄のことを付け加えた。
母のマーサがレイジを産んだ時、集落全体が困惑でどよめいたという。そう、ヤンはユリから聞いた。不吉だ、と人々は口々に言った。レイジの髪は、銀色だった。瞳は、青みがかった灰色だった。それまでドーの星では、男も女も髪は黒で、瞳は黒か濃い茶色。例外は無かった。
「でも、私はとっても誇らしかったよ。レイジは、他の誰よりも男前で、その上、とっても優しい子だったからね」
レイジの話をする時、ニタ婆は必ずそう言った。それを聞くたび、ヤンはいつも、自分が褒められるより幸せな気持ちになった。
レイジ・ドー。
ヤンの兄。
ヤンは、兄のことを考えると、今は少しだけ胸が痛くなる。
ヤンの予想に反して、その日、ニタ婆もユリも説教めいたことは言わなかった。強引なお節介も無かった。遠回しに何かを探られることも無かった。三人でサラダを美味しくいただき、ケートのポタージュ・スープを美味しくいただき、ダダルの卵焼きを美味しくいただいた。いつもと違っていたのは、食事の間じゅう、普段は饒舌なユリがずっと静かだったこと。ヤンがもし何かに悩んでいるのなら、あるいは心に何か引っ掛かりがあるのであれば、それを切り出しやすいようにあえて「会話の余白」を作っている……そんな感じだった。ニタ婆は普段と同じ雰囲気だったが、最後、ご馳走さまの挨拶をしてヤンが立ち上がると突然、こんなことを言った。
「ヤン。おまえは冬を二度越した。だから、これからは自分の人生を思う通りに生きて良いんだよ」
「え。急にどうしたの? ニタ婆」
「何も急じゃないさ。ただ、これだけは言っておく。私やユリ叔母より先に死んではいけないよ。それ以上の不孝は無いからね。さ、食事が終わったのなら、さっさとケートの世話に行きなさい」
なぜ、この日に限ってニタ婆がこんなことを言ったのか……後々、ヤンは何度も思い返した。ニタ婆は若い頃、ドーの星全体でたった十二人しかいない「夢見」と呼ばれる巫女の一人だった。あの時、ニタ婆は何か不吉な夢を見たのだろうか。ヤンは、その時何も尋ねなかった。そこまで特別な何かがあるとは思わなかったからだ。それで、機会は永遠に失われてしまった。
朝食の後は、ケートたちを引き連れ、南東にあるクロスの岩山に向かうのがヤンの仕事だった。山の中腹に、風はかわし日当たりは良い小さな草原がある。そこで雌のケートたちに日光浴をさせると、彼女らの出す乳が香り良く濃厚になるのだ。今、ヤンの受け持ちのケートは全部で42頭。草原まで、ケートたちの歩みでほぼ半時。首輪もロープも不要。彼ら彼女らは、ヤンの吹く『ケート笛』の音色にいつも素直に従ってくれる。ヤンは、この時間が好きだった。ケートたちと赤い荒野をのんびり歩く。同世代の友達は、日々の仕事より恋人選びに夢中だったが、ヤンはダダルやケートと過ごす方が落ち着くのだった。
クロスの岩山まであと半分というところで、東から彼女を呼ぶ声がした。
「ヤーン! ヤーン!」
振り向くと、ハナ・ドーが遠くの小高い丘の上に立ち、ヤンに大きく手を振っていた。くるくるとした黒い巻き髪。贅肉の少ない身体。朗々とよく伸びる、美しい声。
「ヤーン! ちょっとそこで待ってろ! すごい事が起きたんだ!」
ハナは満面の笑顔で叫んでいた。
「超ビッグ・ニュースだ!」

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